AIは恋する (2016/11/7~2018/1/19) 約65,909字

 長い冬が終わり、春の気配を感じ始めた3月の日。人々は新たなる日々への期待にまた胸を躍らせていた。有名大学の工学部の卒業を控えた気鋭の学生もその一人だった。
 「誠一、忘れ物は無いか」
 「はい。じゃあ行ってきます」
 誠一と呼ばれるその若者はすっかり物の無くなった自室を後にすると、父親と2、3言葉を交わし、そのまま外に出た。玄関の表札には木田と書かれている。
 「重いな・・・これ」
 ほとんど全ての荷物を段ボールに荷造りしてトラックで運んだものの、貴重品や大事な物で両手の塞がったまま、定刻より5分ほど遅れたバスに乗り込み、狭い車内を通って一番前の席に座った。
 「芽吹き始めた樹木がまるでフラクタル図形の様だ。」
 そんな事が心をよぎったかどうかといったうちに、バスは誠一の故郷の地域を抜けた。
 ターミナル駅から十数年前に実用化された超伝導リニアなら30分ほどの距離にある郊外の駅からほど近い所に、誠一の新たな一国一城はあった。15階建てほどのワンルームマンションで、周囲の細長い建物のそれとは違って外に面した両方向に部屋があってずんぐりとしている。
 「おはようございます。」
 すれ違うOLらしき住人と挨拶して、誠一はエレベーターに乗り12階のボタンを押す。行先までの階を通る度に、その階を示す表示板が点灯する。
 チーン
 エレベーターを出て屋内にある廊下を歩き、並んだドアの列から誠一は部屋の番号のロゴを辿っていく。
 ガチャ
 部屋のドアを開け、中に入る。何も無い部屋の中心で持ち込んだ大荷物を置いた。部屋にはベランダに向かって大きな窓と、反対の玄関側に対面式キッチンとがある。誠一はフローリングの床に座り込んで何かを考え込む様子だ。
 「やっぱり行こう。」
 そう呟くと誠一は小さなリュックを背負ってすぐ部屋を出た。

 初春の市街にはスーツを着た初々しい顔がちらほらと見え始めていた。木田誠一も新卒としてすぐに配属される身だが、それまでの数日はまだ自由がある。その休暇を利用してとある研究所の公開イベントを訪れた。
 「これだよこの感じ。」
 誠一は研究所の一区画に展示されたアンドロイドの関節の油圧シリンダーやケーブルの配線の類に見入っていた。
 「こんにちは。何か気になりましたか?」
 案内役の女性に声をかけられる誠一。
 「いえ・・・人工生体の技術はどこまで進んでいるのかなと思って」
 「はい。人工生体の展示はこちらになります」
 誠一は女性に招かれアンドロイドの顔の並んだ道を歩いて行く。やがて一番奥にある窓からの木漏れ日に照らされた人型の装置が見えた。
 「やはり人工生体化すると、人間時より生活などの機能は制約されるのですか?」
 誠一は女性にそう尋ねた。
 「この最新のLUNAタイプでしたら、性能は人間以上です」
 「人間・・・以上?」
 誠一はLUNAタイプと呼ばれる美しい女性型アンドロイドを見ながら息をのむ。
 「ごく稀に人工生体に積んであるAIとの間で拒絶反応が起こる事がありますが、そもそもLUNAの設計思想は・・・」
 (人間以上か・・・まさに人類の進化の行き着く先といった感じだな)
 誠一はアンドロイドの免疫や代謝、姿勢の制御などに思いを馳せていた。
木田誠一が大学を卒業する1~2年前。都心のオフィス街を颯爽とハイヒールで歩く若い長身の女性が居た。その女性はSIGMA SOFTと自動ドアの上に表記された建物に吸い込まれて行った。入り口に居る警備員がお辞儀してくる。
 「おはようございます。」
 ロビーに入ると受付嬢が挨拶して来る。シグマソフトで働く久生美佐はオフィスへ続くエレベーターへ向かった。ロビーの外れにある休憩所のソファの上では、徹夜明けなのかワイシャツを着崩した男性が人目も気にせず横になって眠りこけている。
 「下働きは大変ね・・・」
 美佐は休憩所で死んだ様に眠る男性を横目にドアの開いたエレベーターに乗り込んだ。
 「下はあんなに頑張っているというのに、2人の社長ときたら・・・」
 美佐はそう呟いて肩を落とした。シグマソフトには2人の社長が居るのだ。会社法には代表取締役を制限する記載は無い。
 ガーッ
 エレベーターが目的の階に到着し、美佐は開発セクションの廊下を進む。無機質な蛍光灯と扉の列。その一角に美佐の職場があった。
 ピッ
 ICカード認証のスタートレック風のドアがスライドして開く。視界一面に広がるいくつものパソコン。入り口のパーテーションにはΣ LANGUAGEと書かれている。
 「おはよう、美佐!」
 同僚のこれまた大柄な、草薙素子の様なショートカットの若い女性がモニタの画面から目を離して美佐に挨拶する。
 「紀子、おはよう」
 美佐は同僚の斉木紀子に挨拶を返し、自分の椅子にタイトスカートの腰を落とした。
 「紀子ー、昨日の月9ドラマ観たー?」
 パソコンを起動させながら紀子に世間話を振る美佐。
 「あー観た観たー。あの俳優若いのに演技上手くてカッコイイよねー!」
 紀子も同じ時間に観ていたらしく、相槌を打った。2人ともまだ23、4歳くらいなのでそんな話もする年頃だろう。
 「美佐君、コーヒー。」
 オフィスの奥にある独立したデスクに座る壮年の男性がカップを差し出す。
 「はい、部長」
 美佐は立ち上がってコーヒーを汲みに給湯室へ向かった。残された紀子は目尻を下げたまま舌を出してモニタに目を戻した。

 「この機能なんだが、何とか500万で出来ないかね・・・」
 部長が久生美佐に提案する。
 「これ以上下げるんですか?」
 美佐の表情が曇る。
 「最近どうも不景気でね・・・仕事を選んでいられないんだ。」
 部長の男性がばつが悪そうに頭を掻く。
 「停滞を抜けるにはイノベーションが必要だと大学の教授が言ってたんだけれどな」
 「技術的なブレイクスルーの事ですね」
 美佐は部長と話しながら手許の仕様書にもう一度目を通した。
 「それと社長室にこの書類を届けてくれ」
 「分かりました」
 美佐は部長から書類の束を受け取ると、オフィスを後にした。

 コンコン
 「失礼します」
 美佐は社長室の扉を開いた。
 「・・・何も分かっちゃいないな」
 「何だと」
 開口一番にそんな台詞が聞こえてくる。
 (エッ・・・どういう事!?)
 美佐は突然の状況に少し面食らった。2人の社長、1人はフサフサの優男風の人物、もう1人は和服を着た組長みたいな禿げ頭の老人だった。
 「部長から重要書類です」
 美佐は2人の元に寄って封筒を差し出すが、社長たちは意に介さない。
 「目玉焼きにはソースだろうが!」
 若い方の社長が堰を切ったかの様にそう切り出す。
 「いや醤油だ!」
 老人の方がそう返す。
 「・・・失礼しました」
 美佐は踵を返して社長室を後にした。

 「美佐、どうだった?」
 オフィスに戻って来た美佐に斉木紀子が話しかける。
 「ソースか醤油かって口論していたけれど・・・何の話?」
 美佐は手許の書類を立ててトントンと位置を揃えながら、そう尋ねた。
 「週末のバーベキューの話でしょ。」
 紀子はキーボードを叩きながら言った。
 「どっちでもいいじゃない。」
 美佐も机に戻ってマウスを動かす。

 仕事が終わり、美佐と紀子はバーのVIP席で飲んでいた。昼間と同じスーツとタイトスカートのままでいるのが幾分窮屈に感じた。ハイヒールもすぐにでも投げ出したい気分だ。店には他に客が2、3人居て、バーテンと話していた。
 「・・・やっぱり女尊男卑はよくないよ」
 カウンターで飲む30歳くらいの男がそうぼやいていた。
 「そうですか?」
 カウンターでの会話が美佐と紀子の耳にも入ってくる。2人は静かにカクテルか何かを飲んでいたのだが。
 「女なんて公務員以外は奴隷でいいんだよ」
 男が酒をあおりながら2人には聞き捨てならない事を言った。
 「何言ってんの」
 突然美佐が男には背を向けながら話しかけた。男がそれに気付いて振り向く。
 「やんのか?ああ?」
 男が席を立って絡んできた。紀子はそれを睨みつける。
 「上等よ」
 美佐も椅子に肘を付いて振り返り、そう言う。
 「表に出ろこのアマ!」
 男は威勢を張ってバーを出ようとした。

 その10分後、裏路地でゴミの山の上に倒れる男がいた。
 「あんたにはその格好がお似合いよ、馬鹿野郎」
 美佐がそう言って動かない男に蹴りを入れる。175cmある2人には敵わなかった様だ。
 「2度とたてつくんじゃないぞ!」
 紀子も男にバシッと蹴りを入れた。2人はそのままその場を去った。去り際に唾を吐いて。
次の日の朝、美佐の部屋。
 「何か体がだるいわね・・・」
 美佐は一面暗い空間に、一糸纏わぬ姿でお姉さん座りをして佇んでいた。
 「まだ陽が昇らないのかしら?・・・」
 しかしぼやけた意識で見つめる夜明け前の薄明かりのそれとは異なり、妙に意識はハッキリしている。
 「もう少し横になろうかな・・・」
 美佐がそう呟いたその時。
 『まだ眠っているの、美佐』
 「!」
 不意に目と鼻の先から声がして、美佐は驚いて前方を見上げた。
 「誰かそこに居るの!?」
 気付くと金髪の、美佐と同じ背中にかかったロングヘアーの裸の女性が微笑みを浮かべて闇から姿を現した。
 『フッフーン♪』
 美佐の前に現れた美しい女性はそう口ずさんでみせた。
 「あなた誰なの・・・?それに私はもう起きて・・・」
 そう言いかけて美佐はある事に気付いた。似ている。似ているのだ。髪の色や顔の形は違うが、他人とは思えなかった。
 『いいえ、まだアナタは眠っている。私が起こしてア・ゲ・ル』
 そう言い驚く美佐に顔を近付ける金髪の女性。美佐も唇が吸い寄せられていく。まるで鏡にキスしようとしている様な感覚に陥った。
 「ん・・・」
 唇が重なると、急に今の意識が遠のいて行った。
 「あなたは・・・誰・・・」
 だんだん視界が霞んでいき、金髪の女性が動かす口許だけになる。
 『私は、LU・・・』

 がばっ
 跳ね返される様に飛び起きる美佐。視界にはいつもと変わらない、朝日に包まれた部屋の景色が広がっている。
 「ハァハァ、夢か・・・」
 迫真的過ぎる夢から目覚め、気持ちを落ち着ける美佐。無意識に枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。時計の針は7時を回っていた。
 「もうこんな時間!!」
 美佐はベッドから飛び出して仕度を始めた。

 「美佐、おはよう」
 「おはよう紀子」
 シグマソフトのロビーを並んで歩き、エレベーターに乗る美佐と紀子。
 「美佐、昨夜の事覚えてる?」
 紀子は枝毛をいじりながら美佐にそう尋ねる。
 「覚えてない。」
 美佐が伏目がちにそう答えた。
 「私も」
 紀子がやっぱりと言った様子で反応する。
 「・・・ヤクザを殺したんだっけ?」
 美佐がそうボケて見せた。
 「ヤクザを殺したら今頃出社出来ないでしょ!」
 紀子が慌てて繕った。

 仕事が一段落し、繁華街で昼食を摂ってきた美佐と紀子は自社ビルのカフェ・ラウンジに居た。
 「美佐、何飲む?」
 ウッド調の椅子に座ると紀子が尋ねる。
 「私はアメリカン。」
 美佐は最初から決まっていたかの様にそう答える。
 「私はカプチーノにしようかな。すいませーん!」
 紀子が手を上げてそう声をかけると、女性の影が小走りにやって来た。
 「お帰りなさいませ、ご主人様!」
 女はメイド服姿だった。黒服にエプロン、頭にはフリルの様なカチューシャを付けている。
 「・・・ここ風俗だったっけ?」
 紀子が呆れた様子でそう言った。
 「違いますよ~」
 メイドさんが困った様子でそう答える。
 「コーヒー2つね」
 数分後、メイドさんがトレーに乗ったコーヒーを持って来た。
 「アメリカンのご主人様は?」
 メイドさんがそう尋ねる。
 「こっち」
 美佐が目を合わせずに答える。
 「それでは、美味しくなる魔法をかけたいと思います」
 メイドさんは美佐と紀子の手許のコーヒーに手をかざした。
 「うーん、萌え!!」
 メイドさんはそう叫んだだけだった。
 「メイドと萌えと何の関係があるの?」
 「ちょっと、美佐(汗)」
 美佐の冷めた発言に慌てる紀子。
 「そんなにイジメないで下さいよ~」
 メイドが両手を口許に寄せてブリッ子して見せる。そこにシグマソフトの2人居る社長の内老人の方の社長、戸田正志がカフェ・ラウンジを訪れた。
 「あっ、大きなご主人様だー!」
 社長に気付いて駆け寄るメイドさん。
 「大きなご主人様って・・・社長だよ?大丈夫?」
 美佐と紀子はメイドの末路を見守る。
 「お帰りなさいませ!ご主人様!」
 一際元気に社長に声をかけるメイドさん。
 「あっメイドさんだ!萌え~」
 「エエッ!?」
「そろそろ仕事の時間ね」
 美佐と紀子は開発セクションにあるオフィスへと戻った。それぞれのデスクに座ると、パソコンを休止状態から復帰させてパスワードを入力する。
 「そろそろ開発中の機能のチェックする?」
 美佐と紀子は互いに頷いた。シグマソフトは主に音声や言葉を専門としたソフトウェア会社と言える。ソフトウェア部門は4つあり、音声を自動的に翻訳する言語変換ソフト、音声による命令で機械を動作させる音声認識ソフト、ネットワークを通じ電脳同士で会話出来る電脳会話ソフト、人工的に声を作る発声ソフトに分けられる。美佐達はその中の言語変換ソフトの開発に携わっている。
 「それじゃソフトを起動するわ」
 紀子はパソコンにマイクを差し込んで、Σ LANGUAGE SELECTseries4のアイコンをクリックした。
 "音声を入力して下さい"
 まだテスト中なのでインターフェイスは極めてシンプルだ。美佐はおもむろにマイクに口許を近付けた。
 「I have a pen.」
 美佐はそう言った。
 "・・・・・・"
 しかし反応が無い。
 「おかしいわね・・・I have a pen.」
 美佐はもう一度話しかけてみた。すると。
 "このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって・・・"
 プログラムが突然見当違いの翻訳をし始めた。
 「ちょっとこれ、ローマ信徒への手紙じゃない!」
 「よりにもよって何でパウロなの!?」
 突っ込み所が違うような気もするが、美佐達は失敗の原因を探った。
 「念の為ウイルスチェックしてみるわ」
 紀子はウイルススキャンを始めた。その結果は。
 「やっぱり感染してる。トロイの木馬ね」
 「どうする?」
 紀子が美佐に尋ねると、美佐はメモリースティックを取り出した。
 「バックアップは取ってあるわ」
 「よかったー・・・」
 ちょうど昼下がりの、短針と長針が直角に配列した頃だった。

 美佐達がウイルスと格闘していた頃、木田誠一はまだ電子工学科に通う学生だった。誠一は趣味の機械いじりをしていた。
 「デパートのおもちゃ売り場で買って来た楽器を叩くぬいぐるみに、目覚まし時計を連動させて・・・」
 誠一の部屋は誠一が作った機械部品で溢れている。例えばコーヒーペーパーのセットからコーヒー豆の補給まで自動で行われる全自動コーヒーメーカーもその一つだ。
 「出来た!楽器を叩く目覚まし時計の完成だ。」
 誠一は試しに鳴らしてみた。
 パンパンパパパンパンパパンパパン
 「ちょっとうるささが足りないかな?」
 ジューッ
 鍋の吹きこぼれる音。
 「そうだ、カレー作ってるんだった」
 誠一は対面式キッチンに立って料理を始めた。
 午後6時が過ぎ、美佐と紀子はカフェ・ラウンジで小休止していた。
 「さっきはホント大変だったわねー」
 紀子は軽くイベリコ豚のラグーリングイネを食べながら、美佐にそう切り出す。そこに昼間のメイドさんがやって来た。
 「この後も仕事なんですか?」
 素のメイドさんがそう尋ねる。
 「そうよ。今日は帰れないかも」
 美佐がテーブルに肘をついてスマホをいじりながら、そう答える。
 「です・・・まーちってやつ?」
 「まだそこまで行ってないけど」
 美佐からそう聞いてメイドさんは胸をなで下ろした。
 「今どんな仕事をなさっているんですか?」
 メイドさんは素朴な疑問を投げかけた。
 「それは守秘義務だから言えない」
 美佐はあっけなくそう答えた。
 「そうですかー・・・」
 メイドさんは少し落胆した様子だ。
 「でも少し教えると、喋る外国語辞典みたいなものを作っている」
 美佐がスマホを置いてコーヒーを飲んだ。
 「それってスワヒリ語とかも喋るんですか?」
 メイドさんがまた訊く。
 「いえ・・・そこまでは」
 美佐が俯いてしまった。
 「1日中座りっぱなしだから腰が痛くて」
 紀子が大柄な肢体の白のレディースパンツ姿の臀部をさすってみせた。
 「しっかり腰は鍛えなきゃ!」
 「アンタ何言ってんの」
 メイドさんのオヤジみたいな発言に紀子は赤面してそう呟いた。
 「ブラや服が入らなくなる心配も無いからもう人工生体にしようかしら」
 紀子が思いつめたようにそう言う。
 「そんな事無いです!生身の方がいいです!」
 メイドさんは目をバッテンにして声を振り絞る。
 「何で?人間以上の能力が手に入るのよ?」
 紀子がフォークを振りながら言う。
 「私の伯父が人工生体になったけれど・・・確かに便利だって言っていたけれど・・・でも人間じゃなくなるのよ!?」
 メイドさんがトレーを握りしめながらそう言う。
 「アンタだって人間じゃない様なものでしょ。」
 紀子が思った事をそのまま切り返す。
 「私をロボットと一緒にしないで下さいー!ぷんぷん!」
 メイドの国の妖精ことメイドさんが怒り出す。
 「そろそろ行こうか」
 美佐がガタッと席を立った。
 「うん、またね」
 紀子はメイドさんに挨拶して美佐と共にオフィスへ続くロビーのエレベーターへと向かった。
日曜日の朝方、都心のマンションの3階にて。
 ガチャッ
 金属系の玄関ドアが開く。それは住人の久生美佐と遊びに招かれた斉木紀子だった。
 「おじゃましまーす・・・」
 紀子は玄関でゴージャスな造りのミュールを脱ぐ。
 「狭いけれど、ゆっくりしていってね」
 美佐は紀子をリビングに通した。
 「きれいにしてるわねー」
 紀子は部屋をキョロキョロと見回してそう感心した。
 「早く昇給してタワーマンションにでも住みたい所なんだけれどね」
 紀子が絨毯の上に座り込むと、美佐は台所へ向かった。
 「美佐なら直ぐよ」
 紀子は台所の美佐に向かって話しかける。
 「その為には数学をもっと覚えなきゃね」
 美佐はそう言いながら2人分のコーヒーを持って来た。
 「言語も重要よ。構造化すら覚えられないプログラマーもいるらしいし」
 紀子がコーヒーを飲む。
 「仕事の話はいいから、ゲームでもしよっか」
 美佐と紀子はTVモニタの前に座った。
 「それじゃまず格闘ゲームから」
 プレイヤーとステージを選ぶと対戦が始まる。
 「結構強いじゃん、美佐」
 一進一退の攻防を続ける2人。
 「格ゲーは素早く正確にコマンドを入力するのが大事なのよ」
 結果は美佐の勝ちだった。
 「じゃあ次はRPGね」
 データをロードすると主人公がダンジョンを進む。
 「美佐はゲーム開発をどう思う?」
 紀子が画面に食い入りながら美佐に尋ねる。
 「RPGなら少し作った事があるけど」
 美佐がキャラクターを操作しながら答える。
 「どうだった?」
 紀子が美佐の方を向く。
 「マップフェイズと戦闘フェイズを作って、HPと攻撃力を与えて、ダメージ計算をして・・・そんな感じ」
 美佐がコントローラーを握りながら答えた。
 「へえー」
 「GUI(Graphical User Interface)がちょっと面倒だけれどね」
 勇者風のキャラクタはダンジョン内を突き進む。
 「最近はコンピュータグラフィックスの進歩が凄いわねー」
 紀子が感心した様に言う。
 「あれはレンダリングの技術とテクスチャの進歩。やってる事はバーチャファイターと大差無いわよ」
 美佐がそう言ってのけた。
 「そうなんだー」
 時は過ぎて行く。

時間は進み、いくつかのプロジェクトが始まっては済んだ、ある晴れた春の日・・・
 「部長、営業が新しい機能を付ける仕事を受注して来ました」
 美佐が部長に書類を差し出す。
 「よし、早速会議だ」
 部長や美佐をはじめとした部下のプログラマー達は会議室へ向かった。会議室では機能に関する技術的な応答が行われた。
 「翻訳した言葉を音声と文字の両方で出力して、音声に合わせてカラオケみたいに文字をなぞる様にするんだ、それにはこの関数を使って・・・」
 音声認識による自動翻訳を行う言語変換ソフトに関する専門用語が飛び交う。
 「・・・説明はこれで終わり。何か疑問点は?」
 「特にありません」
 部長の言葉に年配のオールバックにしたプログラマーが答える。
 「では会議は終わりだ」

 言語変換ソフトのチームがオフィスに戻り、所変わって社長室のあるフロア。ハイヒールの脚がよく磨かれた廊下を進む。
 コツコツ
 やがて開発オフィスのスライドドアとは異なって簡素な片開きの扉の前にたどり着く。女性らしいシャープでしなやかな指が、ドアを2、3回ノックした後、回転式ドアノブに手をかける。すると。
 「だから・・・違うって言ってるだろっっ」
 「・・・何がだよ」
 部屋の中から聞こえてくる言い争う声。
 (エッ・・・また!?)
 ドアノブを回す手が一瞬止まるが、時間が惜しい。
 「社長、入ります」
 そう言って反動を付けて一気にドアを開けた。
 「そもそも我が社のブランド・イメージはだな・・・」
 社長室では比較的若い男性と老人の男性の2人の社長が椅子を隣り合わせて向かい合い、眉間に皺を寄せて言い合っている。かつて醤油・ソース論争をしていた時と変わらない光景。ミニスカスーツ姿のロングヘアーの女性は部屋に入り、ドアを閉める。
 スッ
 2人の社長の許に歩み寄る女性。その穏やかな表情の小顔は幾分大人になった久生美佐だった。
 「地域貢献の為に何が必要かという事をだな・・・」
 さっきから若い方の社長が老人社長を一方的に諭している。
 「全然分かってないんだよ・・・」
 傍らの机に肘を付き、指先で老人社長をさしながら話す若社長と、それを椅子から身を乗り出して喧嘩腰で聞いている老人社長。2人とも口論に夢中で美佐に構う余裕が無いようだ。美佐の背中がその様子を見下ろしている。
 (これはお決まりの放任パターンね)
 美佐は心の中でため息をついた。そして身を屈める。
 「プロジェクトの詳細を用意したので、ここに置いていきますよ!」
 美佐は両手で封筒を机の上に置いた。
 「では取引先との打ち合わせに行きますので」
 そう言って踵を返すと、軽やかな足取りで社長室を後にする。
 バタン
 扉を閉めると、一緒に来ていた美佐とお揃いのスーツ姿のショートカットの斉木紀子が外で待ちながら様子を伺っていたようだった。
 「何だかえらく深刻そうだったけれど・・・どーして口論してるの?」
 美佐が笑顔で社長室の扉の方を振り返りながら、物知りの紀子に訊く。
 「何だと思う?」
 そう聞き返す紀子。表情は険しい。
 「社会活動に関する話かしら?それとも新分野の開拓とか?」
 美佐が興味津々な笑顔で紀子の顔を覗き込む。
 「そんな高度な内容だったらいいんだけど・・・本当はビルの窓に貼ってあるロゴを取る取らないって話よ・・・まったく」
 紀子は心底呆れた様子だ。
 「やっぱりどっちでもいい話なのね。」
 美佐も期待を裏切られた様子だった。
 「ねえ・・・美佐」
 紀子が突然態度を変え、美佐の手を取って屈託の無い笑顔を浮かべる。
 「な・・・何よ」
 美佐は紀子の馴れ馴れしさに違和感を感じた。
 「今日は帰れそうでしょ・・・だから、仕事が終わったら・・・飲もうね。」
 それは酒好きらしい紀子の提案だった。だからこんなに低姿勢だったのかと美佐は思った。
 「・・・禁酒中だったんじゃないの?」
 美佐は自分の手を掴んで振る紀子にそう言う。
 「飲みニケーションじゃない!」
 「はいはい・・・じゃ後でね」
 美佐と紀子はそう話しながら社長室のあるフロアを後にした。
黄昏時になった街は、仕事や学校帰りの人達で溢れていた。皆黙って家路に就く。その頃シグマソフトの美佐の居るオフィスでは。
 (あれ・・・コンパイラがエラーを出したわ)
 美佐はまばたきしてエラーメッセージを確認する。
 (まあいいわ・・・また後にしましょう)
 美佐はパソコンをシャットダウンする。
 「お疲れ様です、部長」
 席を立ち、そう挨拶する。
 「ああお疲れ。気を付けて帰れよ」
 部長と挨拶を交わすと美佐はオフィスを出てエレベーターでロビーへ降りた。
 「いつものバーへ先に行って待ってるね、美佐♥」
 美佐は頭を下げる受付嬢を横目にロビーを歩きながら、紀子と最後に会った時の嬉しそうに満面の笑みを浮かべるのを思い出していた。
 「お気を付けてお帰り下さい」
 自動ドアをくぐると外には警備員が立っていて、部長と同じ事を言った。美佐は返事はせずにそこを後にする。
 ゴオオオオ
 会社のあるビルの前の通りは帰宅ラッシュの為か自動車の往来が激しい。美佐は先程のエラーの解決法を考えながら歩き、交差点にさしかかる。
 パッ
 歩行者信号が青になったのを確認し、横断歩道を渡る。そこに猛スピードで突進する車が!
 「それでそいつがさー」
 自動車の運転席では金髪の真ん中分けのチャラ男風の若者が前を見ずに、助手席の女に話しかける。
 「キャハハハ何それ面白ーい」
 助手席の単純そうな若い女が爆笑していた。車は赤信号を無視し、スピードを落とさずに交差点に進入する。
 「!!」
 美佐が振り向いた時にはもう遅かった。一瞬車のボンネットが迫って来るのが目に飛び込む。
 バン!!
 美佐は思い切りふっ飛ばされた。棒切れの様にアスファルトの上を転がって行く。
 「!!・・・・・・」
 まだ意識はあった。自分がはねられて地面の上に横たわっているのが分かる。
 「うっ・・・・・・」
 辺りには一面血がまっていた。急速に意識は遠のいていき、視界が赤く暗くなっていく。
 「紀子・・・・・・」
 美佐の意識は途絶えた。

 プルルルル
 「はい、斉木です」
 バーでしばらく美佐を待っていた紀子が、携帯の着信に気付き電話に出る。
 「えっ、美佐が・・・」
 紀子は携帯をしまうと足早にバーを後にした。

 一方事故現場にやって来た救急車の中では。
 「酸素吸入急いで!」
 救急隊員による応急処置が瀕死の美佐に対して行われる。
 「全身の複雑骨折と出血多量、意識もありません」
 救急隊員達の会話。
 「そうか、なら国立病院に送ろう」
 「分かりました」
 マスクをした救急隊員の一人が電話をかける。他の隊員達は全身の擦過傷の手当てをする。
 「・・・もしもし、重体の女性が一名、そちらに搬入してもよろしいでしょうか?・・・えっ、名前ですか?」
 電話口の隊員は傍にいた別の隊員に目配せする。
 「この女性が持っていたカバンの中だ」
 別の隊員がカバンの中を確認すると、美佐の社員証が出てきた。
 「えっと・・・久生・・・美佐さん」
 「久生美佐さんです」
 電話口の救急隊員は他にも2、3の病院からの質問事項について答えている。
 「・・・では行きますので。おい、国立病院だ、救急車出して」
 ウー
 救急車は事故現場から離れ、美佐を乗せサイレンを鳴らしながら病院へと向かった。
 意識の中の美佐は苦悶する彫刻の顔の様な表情で、頭が重いかの様子で眉間に皺を寄せながら掌で顔を覆っていた。
 「はっ」
 気が付くと一面暗闇で、美佐は手を下ろして辺りを見回すが、何も見えない。
 「ここは・・・」
 美佐は一糸纏わぬ姿でお姉さん座りをしていた。一呼吸おき先程の出来事をありありと思い出す。
 「夢の中で見た暗闇と同じだわ・・・でも、私は交通事故に遭って・・・」
 そうなると、考えられる選択肢は一つしか無い。
 (やっぱり死んだんだ・・・私・・・)
 美佐はそこが話には聞いた事がある死後の世界だと思った。美佐は苦虫を噛み潰した様な表情で美しい顔を僅かに歪めて事態を飲み込もうとした。その時。
 スウ・・・
 突然、目の前に美佐と同じ白い裸足の女性の脚が現れる。
 「!」
 美佐はビクッと驚きそれを見上げる。女性は美佐の前で立ち止まった。

 その頃事故現場では、血の飛び散った道路を前にして、加害者の自動車に乗っていた若い男女が途方に暮れていた。
 「あの人・・・死んじゃうの?!」
 女性の方が大粒の涙を流す。男性の方はうなだれた様子で取り乱す女性を抱き寄せた。
 「女性は救急車で運ばれていったから・・・病院のお医者さんに任せるしか無い」
 女性は一瞬大人しくなる。
 「でも・・・あれじゃ助からないわ!!」
 女性はほとんど死体同然の美佐の姿を思い出してまた泣き出してしまった。

 美佐を運ぶ救急車が病院に着く。救急用の車輪の付いたベッドが救急入口から病院の廊下を押されて進んで行く。その周りには術衣を着た大人達が束になって早足に歩く。
 「呼吸脈拍低下、サケード無し」
 ベッドを取り囲む一行が手術室に入った。
 「これが患者か」
 傷だらけでベッドに横たわって動かない美佐を見下ろすマスクをした医者や看護婦。手早く心電図用の電極を美佐の上体に取り付け、看護婦の一人が手術用の照明を点ける。
 「33分前に交通事故に遭ったそうです。全身を損傷しています」
 手術の助手達が話している。
 「頭は残っている。これなら大丈夫だ。先生を待とう」

 手術室の前の廊下には、スーツ姿のまま病院に駆けつけた立会人の美佐の同僚の斉木紀子がいた。そこに落ち着いた物腰のマスクに術衣姿の男性がやって来る。
 「久生美佐さんの会社の方ですか」
 動揺した様子の紀子に向かって医者が話しかける。往来にはいつもと変わらぬ様子でナース帽を被った看護婦が通っている。
 「あの・・・久生が交通事故に遭ったと聞いたのですが・・・久生の容態は・・・」
 紀子は拳をか細くギュッと握って心配そうに胸に当てながら、堰を切った様に話し出す。
 「全身の骨折と出血多量で久生さんの体はほとんど機能していません・・・脳と脊椎を人工生体に移植する、人工生体化手術を行います」
 医者は手袋を装着しながらそう説明する。
 「そうですか、分かりました・・・」
 美佐が助かる方法を知って紀子は少し安堵したが、人工生体化の成功率も100%では無い。
 「美佐・・・必ず帰って来て」
 いつも豪胆な紀子からは想像もつかないほどうろたえた表情。

 先程紀子と廊下で面会した医者が手術室に入ると、術衣を着た医者や看護婦たちが振り向いて一様に会釈した。
 「それでは脳と脊椎の人工生体への移植手術を行う。執刀は遠藤真澄。よろしくお願いします」
 美佐の執刀医がマスクの下からでもよく通る、低い声色でそう言う。
 「よろしくお願いします」
 助手や看護婦達が挨拶を返した。
 「メス」
 傍らの看護婦がバトンの様に手術用のメスを医師に手渡す。慌しく手術が始まった。
医師達は美佐の人工生体化の為に頭蓋骨を開頭していた。そこで美佐の脳を見た。
 「彼女の脳・・・電脳化しているぞ」
 美佐の脳の周りにはマイクロマシンが散りばめられていた。
 「漁夫の利とはこういう事だな。これで人工生体化しやすくなる」
 続いて医師達は人工生体を起動し始めた。背もたれの頭の部分からは天使の輪を思わせる弧状の装飾がせり出し、人工生体の背中にはいくつもの配線が伝う。そして女性型機密ボディのむき出しになった形の良い胸部の中心にはポンプの様な太いケーブルが接続されている。
 「駆動系最終確認」
 モニタに人工生体の四肢の各部デバイスの動作状況が表示される。オールグリーンだ。
 「制御AIの作動確認」
 そして人工生体の全身の生体活動を司る、ちょうど臓器の様な働きをする高度なAI(人工知能)が機能しているか確認する。
 「作動正常」
 人工生体側の受け入れ態勢は整った。次に外科的に脳と脊椎を人工生体に移し変える。金髪の真新しい人工生体の目の前に、満身創痍の、口と眼から血を流した美佐の頭部が配置される。
 「脊髄神経を傷付けるなよ」
 医師達は手早く脳と脊椎を人工生体に移植した。
 「もう少しだ」
 そして最終的に人工生体に搭載された制御AIを形作っているプログラムが脳と人工生体を適合させるプロセスに移る。人工生体の瞳が開かれた。

 その時美佐の意識の中でも、美佐の前に立つ金髪の女性の顔が闇の中から現れた。とても柔和な表情をしている。
 「あなたは・・・?」
 美佐は半分怯えた、また半分訝しんだ表情で金髪の女性を見上げた。裸のまま向き合う2人。美佐の予感は的中する。
 「私は、あなた・・・」
 金髪の女性はそう答えた。美佐はその事を受け容れざるを得ない、いや受け容れなければいけない様な気がした。
 「私はあなたと一つになる・・・」
 プログラムが人工生体と脳との適合処理、ひいては新たな生命体としての活動を始めるための処理の進行状況を表示していく。
 last process
 immunity=1
 metabolism=1
 posture=1
 ok control
 successed
 美佐の意識が海面に浮上する時の様に、急速に光明の下に近付いて行く。

 「・・・さん、美佐さん」
 誰かの私を呼ぶ声。
 (・・・うるさいわね・・・眠りを覚ますのは誰・・・?)
 声に反応して目を開けると、目に映る像はぼやけていた。すぐに焦点を合わせる。目に飛び込んで来たのは無機質な天井だった。
 「目が覚めましたー?美佐さん」
 声を発する位置が移動しているので、話している人は慌しく動き回っているのだと分かる。
 「私の声が聞こえますか?」
 美佐はベッドの枕の上に長い金髪を広げて、目を見開いたまままばたきもせずに静止していた。朝の光が美佐の彫りの深い顔に差し込み陰影を作る。
 「美佐さん?」
 一際大きい声。気付くとナース帽を被った看護婦がベッドに横たわる美佐の顔を覗き込んでいた。
 (何度も名前呼ばれなくたって・・・聞こえてるわよ!)
 そう言葉にしようとして、口を開いたつもりだったが、何も声は響かなかった。
 (あれ・・・?しゃべったつもりなのに)
 美佐は心の中で慌てていたが、美佐の顔は何事も無かったかの様に眉一つ動かさない。
 「あっすみません、まだ声を出せないんでしたね」
 看護婦はそう謝りながら美佐の掛け布団をめくる。パジャマ姿のボンキュッボンの美佐の肢体があらわになる。
 「私の声が聞こえていたら、まばたきしてみて下さい」
 看護婦がそう言ったのに反応したのか、一呼吸置いて美佐が数回まばたきをした。
 「ありがとう。おはようございます、美佐さん」
看護婦は手慣れた様子で美佐の人工生体の肢体の背中に腕を割り入れる。
 「待ってて下さい、今上体を起こしますから・・・」
 そうしてゆっくりと美佐の体を持ち上げようとした。
 ガバッ
 ところが美佐は自分の力で上体を起こした。
 「おっすごいですね、もう適応してしまうなんて・・・」
 看護婦は一瞬面食らったが、すぐに気を取り直して次の作業に移った。美佐の腕をなぞって位置を確かめ、人間で言うとちょうど脈を測る位置を指の腹ですべる様にスライドさせると、端子の差込み口になっている部分のカバーが開く。看護婦はそこにケーブルを挿し、スカウターの様な装置で電圧や温度を計測し始めた。
 「すぐ終わりますからね。痛くは・・・無いですよね」
 看護婦は計器をベッドの上に置くと辺りを忙しそうに動き回る。美佐は腕に繋がれたケーブルとその先の計器の表示を、眼球を動かして見下ろす。
 「測り終えましたか?値は・・・正常ですね」
 少したってベッドに戻って来て計器を一瞥した看護婦は安心した様子で美佐の腕から計器を外し、すぐに片付けた。
 「ごめんなさいね、バタバタしていて。慣れないですよね」
 看護婦がそう言うと、美佐は返事をする代わりに頷いてみせた。 
 「美佐さんってプログラマーでしたよね」
 看護婦は改まった様子で膝を曲げて半身になり、美佐にそう尋ねる。
 「美佐さんの体には美佐さんの生命活動を司る高性能のAIが詰め込まれています。AIの記述については想像出来ますか?」
 美佐は首を横に振る。目で見て分かったつもりになるのと実際に書くのは大違いだという事を美佐は知っていた。
 「では人工生体について聞いた事は?」
 看護婦は質問を簡単にした。美佐が頷いた。
 「失礼します」
 そこに白衣の初老の男性が入室して来た。口許に静かな笑みをたたえている。
 「あっ先生」
 看護婦は医師に気付くと軽い身のこなしで席を外した。
 「おはようございます。その様子なら大丈夫そうだ、美佐さん」
 外科医であると同時に人工生体の専門家でもある美佐の執刀医が、美佐の体の各部に目を凝らしてそう言った。
 「これから人工生体を操る練習に入りますからね」
 看護婦が医師の後ろで微笑んでいる。
 「人工生体のAIは人工生体の生命活動全てを記述しているものです」
 医師が黙って見つめてくる美佐に対しそう分かりやすく説明する。
 「それらは高度なコンピュータ言語が用いられていて、工業用のロボット等とは一線を画します」
 医師はそう言うと聴診器を取り出す。看護婦が美佐のパジャマのボタンを外してはだけさせると、医師は美佐の下着姿の胸に聴診器を当てた。
 「ちょうどこの辺りにAIを搭載したマイクロチップがあります」
 ゴオオオオ
 今の美佐を美佐たらしめているもの。モーターやファンの正常な作動音。
 「ちゃんと動作している様です。だるさや疲労感は感じませんか?」
 医師がそう尋ねると、美佐は首を横に振った。
 「それは良かった。さ、体を横になってもう少し楽にしていて下さい」
 美佐がその言葉を聞きベッドに横たわると、医師は安心した様に退室して行った。
 「それでは何か話してみましょうか」
 看護婦がベッドに横たわる美佐に話しかけると、美佐は弾かれる様に上体を起こす。
 「まず、"あ"と発音してみて下さい」
 看護婦がそう話しかけると、美佐が発声しようとする。
 「・・・・・・」
 しかし口は動かない。美佐は焦った様子で手許の掛け布団を握り締める。
 「口を動かそうとするのではなく、脳に言葉を発音したいと直接訴えかける様な感じで」
 美佐は眉間に皺を寄せて目を細め、もう一度言葉を発しようとした。
 「・・・・・・あ・・・あ」
 今度は口が動いて初めて話す事が出来た。
 「よく出来ました、それでは何か言いたい事を話してみて下さい」
 看護婦が尋ねると、美佐は一生懸命言葉を発しようとする。
 「あ・・・り・・・が・・・とう・・・ありがとう・・・」
 美佐が初めて話した言葉は感謝の言葉だった。看護婦は感極まって口許に手を当てて泣き出してしまった。

それから数日たった美佐の病室。
 「ねえ看護婦さん、もう退院させてくれない?」
 ベッドの上で腰から下に布団を被りながら、美佐がそう流暢に話す。
 「こうして会話できるし、もう歩く事だって出来るんだし」
 確かに美佐の人工生体への適応は目を見張るものがあった。
 「美佐さん・・・まだだめですよ」
 美佐の言葉に看護婦はうんざりした様子で返事をする。美佐の居る個室の戸棚を清掃している所だ。
 「入院生活ってあとどのくらいかかるのかしら?」
 美佐が動き回る看護婦を他にする事が無いので、じっと見つめながらそう尋ねる。
 「数ヶ月は経過観察する必要があるわ。いきなり倒れたりしたら大変ですから」
 看護婦は気の遠くなる様な事をさらっと言ってのけた。
 「それは無理」
 美佐はどこか意地になっていた。

 「美佐さん、面会の方が来ています」
 「通して」
 美佐が看護婦の言葉にそう答えると、大きな人影が個室に入って来た。
 「紀子!」
 やって来たのは少し表情がやつれた様子の美佐の同僚、斉木紀子だった。
 「美佐ー、よかったー!」
 紀子は美佐を見ると表情をほころばせ、ショルダーバッグを提げたままベッドから足を出して座る美佐の許に駆け寄って抱きついた。
 「会社の皆も心配してたのよ!」
 紀子が美佐に体を押し付けたまま話す。
 「・・・姿も声も違うのに、私じゃないって思わないの?」
 美佐が事故前とは違う声色で言う。
 「ちょっと違和感があるけどね。」
 紀子は美佐を一層強く抱きしめた。
 「ところで美佐、いつ頃仕事に戻れるの?」
 紀子は美佐から離れ、真剣そうな目つきで美佐の瞳を覗き込む。
 「納期はいつ?」
 パジャマ姿の顔の周りを覆って肩までかかった金髪になった美佐が、妙に落ち着いた様子に変わってそう尋ねる。
 「あと1ヶ月無いわよ。皆てんてこ舞いなのよ」
 紀子がそう答えた。
 「・・・同僚もこう言っているから、退院させてくれないかしら?」
 美佐が入口に立っている看護婦に声を張ってそう言う。
 「美佐さん、あなたは産まれたばかりの赤子も同然なんですよ、目を離すわけにはいきません」
 看護婦はきっぱりと言い放った。
 「この調子なのよ」
 美佐は傍らに立つ、大きな胸を強調する様なノースリーブのブラウスにタイトスカートといういつもの出で立ちの紀子の方に向き直る。
 「少し外出するくらいから、許可してもらえませんか?」
 紀子が美佐に背中を押される様に看護婦に提案した。
 「もう・・・少しだけですよ!」

 ゴオオオオ
 街はいつもの様子で騒々しい。美佐は紀子が用意した服を着て、おぼつかない足取りで紀子に肩を支えられながら初めての外出をしていた。
 「誰も私の方を振り返らない・・・」
 通りを歩くサラリーマンやOLが仏頂面で美佐達の横を通り過ぎる。誰も美佐が人工生体だとは気付いていない様だ。
 「皆忙しくて私達に構ってるヒマ無いのよ」
 紀子も少し見当違いな様子に戸惑っているようだった。
 「それとも私が整形しているくらいの感覚なのかしら」
 美佐はそう自分に言い聞かせて安心しているような様子だった。
 「そのうち以前と変わらない生活に戻るわよ」
 紀子は美佐を支えたまま大通りに面する建物に入って行く。
 ガチャ
 美佐は紀子に連れられて部屋に久しぶりに戻って来た。部屋は事故前と何も変わった所は無く、ちょっと買い物に行くくらいの時間の流れでそこに留まっていた。いつか紀子と一緒に遊んだゲームもTVモニタの前に置いてある。
 「部屋に戻って来て一番にする事は?」
 紀子が靴を脱ぎ廊下の壁に倒れ込んだりしながら部屋に入る美佐を見守りながら、そう呟いた。美佐は机の上のパソコンの起動スイッチを押した。
 「パソコンのパスワードとか覚えてる?」
 「何とか」
 美佐はキーボードを叩くのは人工生体になって初めてだったが、指―マニピュレータとでも呼ぶべきだろうか―は正確に狙ったキーを押す事が出来た。
 「エクセレント!」
 紀子が思わずそう褒めた。美佐はデスクトップ画面からファイルフォルダを選択する。モニタに美佐が書いたソースコードが表示される。
 「どう?読める?」
 紀子が緊張した面持ちで美佐に尋ねる。
 「人工的な眼と脳の結びつきには無意識の知覚というインターフェイスが無いから、何となく分かるとか推論めいたものは無い。文字列も定量的な情報として処理されるだけだから、まさにコンピュータの知覚に近いわね。慣れるのにちょっと苦労するかも」
 美佐は自分の理解を人間の紀子にも分かるように説明して見せた。
 「じゃあ一応はコードが読めるって事ね。よかったー」
 紀子の表情が綻んだ。
人工生体になってもパソコンを使う事が出来て安心した美佐。陽が落ちて美佐と紀子は夜の繁華街を歩いていた。
 「今夜は冷えるわねー、美佐」
 紀子は自らの広い肩をノースリーブでは心もとないといった様子で腕を交差させて押さえて見せた。
 「そうなの?寒さは感じないのだけれど」
 美佐は訝しんで辺りを見回す。雨が降っているわけでもなく、歩行者達も特に厚着をしている様子もなければ、寒そうに肩をすぼめて歩いているわけでも無かったので、美佐には秋の夜長という事しか分からなかった。
 「いいなー、冷え性の心配が無くて」
 紀子がそう言った後、ハッとして美佐の顔を覗き込む。美佐はその言葉に少し寂しげな表情をしていた。
 「暑過ぎても寒過ぎても内蔵の機械の調子が悪くなるとは説明を受けたけど」
 美佐はお腹を優しく押さえながら自分の体を見下ろす。突き出た胸とくびれた腰は、以前のサイズとほとんど変わらない様に見えた。身長も174cmで人間の時と一緒なのだ。ちなみに紀子の方が2cmほど大きい。
 「へえー、ターミネーターみたいにはいかないのね」
 紀子はちょっと嬉しそうに青い瞳をしたマッチョを思い浮かべた。
 「意外とデリケートなのよ」
 美佐はまるで今の体に慣れ親しんでいるかの様にそう言った。

 「乾杯!」
 繁華街の中腹にある行きつけのバーに辿り着いた美佐と紀子は、待ちきれなかった様子でグラスを手に取った。
 「今夜は美佐が生き返った祝い酒よ!」
 ただ酒を飲みたいだけの紀子が取ってつけた様にそう発言する。美佐は腕時計を覗き込む。門限はとっくに過ぎている。病院では看護婦がかんかんだろう。
 「あれ、美佐さん死んだんですか?」
 蝶ネクタイを付けたバーテンがそう気さくに言う。
 「三途の川は見えたんだけどね」
 美佐はカラフルなカクテルの入ったグラスを指で遊ばせながらそう大げさに言って見せた。
 「それは大変だったんですね。今の一杯はプレゼントさせて頂きます」
 バーテンはそう言いながら高い次の酒を作っている。
 「そう言えばあなたお酒飲めるの?」
 自分で酒場に連れて来て今更と言った感じだが、紀子が心配そうに美佐に尋ねる。
 「一応飲み物は冷却水として飲めるようになっているけれど」
 美佐はカクテルを見つめながら言う。美味しそうだ。しかし酔う事が出来るのだろうか。
 んっんっ・・・ゴクリ
 紀子は美佐を尻目にカクテルを一気飲みしてしまった。
 「それならジャンジャン飲みなさい!」

 「看護婦さん、たらいまぁ~」
 夜が更けて病院に戻って来た美佐と紀子。2人とも千鳥足だ。
 「まあ美佐さん、こんな時間まで何やってたんですか!」
 看護婦が呆れた様子で美佐に訊く。
 「看護婦さーん聞いてよー、美佐の奴人工生体なのにこんなに酔っ払っちゃって・・・あーおかしー」
 紀子がほぼ初対面の看護婦に向かって馴れ馴れしく言う。紀子は絡み酒気味だ。
 「あなたも酔っ払ってます!」
 紀子を制する看護婦。
 「えー、私は酔っ払ってないわよ・・・ヒック」
 紀子はへそを曲げてしまった。
 「看護婦さん、人工生体が酔っ払うなんて聞いてないわよ・・・」
 美佐が高揚した気分に慣れない様子で看護婦に尋ねる。
 「人工生体には免疫や代謝を模したものだってあるんですよ。生物的機能は一通り備わっています。アルコールの分解も」
 看護婦がそう説明すると、美佐はモヤモヤした頭で何か考え込む様子だった。
 「じ、じゃあいつ酔いから覚めるの・・・?」
 美佐がそう尋ねると、看護婦は美佐の腕のコンソールに触れた。
 「ここを押せば、一瞬でアルコールが分解されます」
 看護婦がアルコールの分解ボタンを押す。美佐は我に帰った様になった。
 「なんだ。」
 美佐は安心した様に言った。
 「あー美佐ずるいー」
 紀子がトロンとした目つきで美佐の肩をポンポン叩く。
 「あんたもう帰った方がいいわよ・・・」
 病院が一斉に消灯された。

 「待って下さい、美佐さん!」
 美佐はツンツンした様子で、荷物の入ったカバンを両腕に抱えながら、足早に病院の廊下を歩いていた。後ろから看護婦が慌ててついて来る。
 「何?」
 美佐は立ち止まって看護婦の方を振り返る。
 「せ、先生の・・・先生の問診の時間です!」
 看護婦は慌てて美佐を引き止める口実を口に出す。
 「私は居ないって言っておいて」
 美佐はそう言い捨てると再び歩き出した。
 「わ・・・分かりました!それでは1つだけ質問をさせて下さい。心理テストです」
 看護婦は息を切らしながらそう言った。
 「早くしてよ」
 美佐は荷物を重そうに肩を落として見せた。人工生体には筋肉疲労などが無いのでそれはただの重いフリだったが。
 「そ、それでは質問です。川で少女が溺れています。周りにはあなたしか居なくて助けを呼ぶ時間はありません。人工生体は水に浮かないので川に入ったら溺れてしまいます。あなたは少女を助けますか?」
 看護婦はそういって美佐の瞳を覗き込む。美佐から出て来た答えは。
 「助けるに決まってるじゃない」
 美佐は考える様子も無くそう言った。
 「そうですか」
 看護婦は意味深そうな声色で言った。
 「もう帰っていい?」
 美佐が尋ねる。
 「人工生体と付き合っていく為には、少女を助けない方がいい・・・と言いたいところですが、合格です」
 看護婦は安心した様にそう言った。
 「今までありがとう」
 美佐は病院の玄関を出た。晴れやかな青空。
 「困った事があったらいつでも来て下さいね!」
 颯爽と歩く美佐。人工の金髪のロングヘアーが風になびいていた。
病院をすぐに退院した美佐は、マンションの部屋でコーディングを続けていた。
 「充電し続ければ飲まず食わずでも仕事が出来て楽だわ」
 美佐の尾てい骨の辺りから配線が伸びていて、コンセントに接続されていた。
 「今何時かしら」
 美佐は何気なく壁時計を見遣る。窓の外は暗くなっていて、時計は短針と長針が直角に配置していた。
 「もう9時か・・・キリがいいし今日はここまでにしておこうかしら」
 パソコンの電源を落とした美佐はテレビを点けた。
 "今夜は人工生体狩りについての実情をお伝えします・・・"
 ニュースキャスターの抑揚の無い声。
 「人工生体狩り・・・初めて聞く言葉ね」
 自分が人工生体になったからこそ、人工生体という言葉に敏感になった、とも内心思った。
 "人工生体狩りを行うのは主に失業者で、その主張は人工生体によって雇用の機会が失われたとするものです・・・"
 モニタ画面には無残に壊されメタルボディの露わになった人工生体の姿が映る。
 "経済産業省による調査では、新規雇用において生身の人間と人工生体が競合した場合、人工生体をとると答えた企業は8割に及び・・・"
 続いて画面には近未来の都心の超高層ビル群がパンされ、その上から数値や円グラフといったデータが次々表示されていく。
 「人工生体の方が有利なんだ・・・知らなかった」
 "海外では人工生体反対や人工生体を破壊しろなどといったプラカードを掲げた群集による暴動も起こっております"
 プッッ
 美佐はテレビの電源を消す。
 「眠くなってきた・・・人工生体だって眠くなるのよ、シャワー浴びたら寝ようっと」
 美佐は両腕を持ち上げながら欠伸をして、裸足で浴室へと歩いていった。

 病院を退院して1週間たった朝、美佐はいつものスーツにタイトスカート姿でオフィス街を歩いていた。すれ違う人々の顔を何気なく一瞥する。この中に自分と同じ人工生体の者が居るのだろうか。
 「おはようございます」
 ロビーで受付嬢の挨拶を聞き、エレベーターに乗り開発セクションの階のあるボタンを押す。
 ピッ
 ICカード認証のドアを開け、言語変換ソフトのオフィスに入った。
 「おはようございます、久生美佐です。お久しぶりです」
 美佐が元気に挨拶すると、それに気付いた美佐の空席だったデスクの隣に座る紀子が、開発部長の男性の許に歩み寄り、耳打ちする。その言葉に徐に顔を上げた部長が美佐を見て驚く。
 「み、美佐君・・・おはよう」
 美佐は部長の動揺した様子を意に介さず、バッグを置き自分のデスクに腰を落とした。
 「ちょっと紀子君!」
 部長が小声で紀子を呼び、耳を傾けた紀子に向かって美佐の方を指差しながらあれやこれやと指示している。それに対してうんうんと頷く紀子。
 「美佐」
 部長から離れた紀子が美佐の隣の自分の席に座りながらそう話しかける。
 「部長があなたは交通事故に遭ったんじゃなかった?って」
 部長がその会話に聞き耳を立てながら落ち着かない様子でマウスをカチ、カチと押している。
 「そうよ」
 美佐が素っ気無く答える。
 「それで、死んだと聞いたって」
 紀子が棒読みでさらに訊く。
 「脳と脊椎を人工生体に移植して、一命を取りとめたのよ」
 紀子は全て知っているだろうが、今一度説明してみせる美佐。
 「それで、その後半年は病院のベッドの上のハズだろうって」
 紀子はそう言いきると自分の作業に戻った。
 ガタッ
 美佐は無言で席を立つ。
 「!」
 自分の方に歩いてくる部下の美佐に気付き、体が強張る部長。美佐はそれを見ていて窮鼠に接する猫の様な気分を少し抱いた。
 「部長」
 「な、何だね・・・」
 部長が美佐の方に視線を上げると、美佐はメモリースティックを差し出した。
 「1日1000行コーディング出来る様になりました。日常生活も苦もなく送れています。何か不満がありますか?」
 部長はその言葉に目を丸くしてメモリースティックを見遣った。
 「それはすごい、私は何か誤解していたようだ」
 美佐はその言葉を聞くとニンマリと笑った。
 「いや、美佐君が居なくて大変だったんだよー。美佐君のコードは難しくて読めないと皆言うし」
 そう言って資料の束を美佐の前に置く。
 「納期はいつですか?」
 美佐が尋ねる。
 「あと2週間だ。そろそろ死の行進に入るよ」
 部長がそう答える。美佐は職場に復帰した事を一瞬後悔する気持ちになった。しかしそれを振り切って言った。
 「誠心誠意やらせて頂きます」
 美佐は早速自分の席に戻ってコマンドを打ち始めた。紀子も部長もパソコンに向かって作業を始めた。
仕事が納期に間に合い、一息ついた美佐は出会いを求めて金持ちが集まるパーティーに参加していた。美佐はパーティー会場を手ぶらのまま辺りをキョロキョロ見回した。皆幸せそうだ。美佐は自分が浮いているような気がした。
 「赤ワイン飲みませんか?美味しいですよ、このワイン」
 後ろからスーツ姿の若い長身のキザったい男がワインの入ったグラスを差し出して来た。
 「いいのよ私は。酔いの感覚が変わっちゃったから」
 美佐はそう言って首を横に振った。
 「あなたひょっとして機械の体ですか?」
 勘のいい若い男がそう尋ねる。美佐は無言で頷いて見せた。
 「外に行って話しませんか?」
 男がそう切り出し、美佐が拒絶しなかったので男は美佐の背中に手を回し美佐をエスコートして会場の出入り口に歩いて行った。

 美佐と男は夜の公園のベンチに座っていた。星も見えない都会のど真ん中にあるというのに静まり返っている。いい場所を選んだものだ。
 「こんな暗がりに来たのは久しぶりだわ・・・ちょっと怖いわね」
 美佐は含み笑いを浮かべてそう言った。
 「僕が居るから大丈夫ですよ」
 男が真剣な眼差しで美佐の顔を覗き込む。
 「まあ絡まれたとしても人間相手には負けないんだけど」
 美佐は右腕で私服の上から力こぶを作ってみせた。
 「理想の体・・・ですか。何だか憧れますね」
 男が美佐を見る。傍目にはほとんど人間と区別が付かない。
 「そうよ。太る心配も無いし」
 機械の体なのだから脂肪の付き様も無いのだが。
 「でも人工生体って思い通りにいかない事もあるでしょう?」
 男が話の矛先を変えた。
 「そうね・・・脳の活動を損なわない為に脳を誤魔化しているわけだから」
 人間の時と体の動き方や認知機能が異なる事は美佐が一番よく分かっていた。
 「だというのにIT企業でバリバリ働かれていて、凄いと思います」
 男が感心した様に言う。
 「大変なだけよ」
 美佐が謙遜してみせた。
 「そろそろ帰ろうかしら・・・明日も早いし。あなたも私の事は忘れて、生身の女と付き合った方がいいと思うわ・・・」
 美佐は立ち上がって服のお尻に付いた埃を払い、立ち去ろうとした。その手を男が不意に掴む。
 「あなただからいいんですよ」
 美佐の手を握ったままの男も立ち上がる。
 「えっ・・・」
 美佐は男の方に体を向ける。2人が吸い寄せられて行く。
 「人工生体の君が・・・何だかすごく魅力的なんだ・・・」
 男のその言葉に、美佐は頭がぼーっとして行くのを感じた。美佐は瞳を閉じ顎を上げて唇を差し出す。男も唇を近付けて行った。その時。
 ドサッ
 「!?」
 突然美佐が男の胸元から力無くその場に倒れた。

 気付くと美佐は国立病院のベッドの上に居た。
 「気が付きましたか?美佐さん」
 美佐がベッドから飛び起きて辺りを不思議そうに見回すと、生まれ変わった時付き添っていたいつもの看護婦が素っ気無くそう言った。
 「あれ?私確か公園のベンチに居て・・・」
 美佐が記憶を辿る。記憶はそこで途切れている。
 「二枚目の男性があなたを抱えてこの病院まで運んで来たんですよ」
 看護婦はせわしなく美佐のベッドの周りを動き回る。
 「電力不足で倒れたんですよ」
 看護婦の言葉に美佐はハッとした。確かに丸一日充電をしていなかった。
 「・・・男性はどこに?」
 手を掴まれた時の感触がまだ残っている。
 「大丈夫だと説明して私が帰しました」
 看護婦がそう説明すると、美佐は残念そうに肩を落とした。
 「・・・もう恋なんて出来ない体なのね」

 それからまた春がやって来て・・・
 「久生部長、予算の見積もりが出来ました」
 部長と呼ばれオフィスを歩いていた久生美佐が振り向く。美佐は男性とのデート中に倒れた後人工生体のハンディをものともせず一生懸命に働き、仕事で成功し若干25歳にして開発部長の地位を得ていた。
 「そう。早速お客さんと相談するわね」
 美佐は見積もり書を受け取ってそう言った。
 「それと、人事部に頼んでいた人員の補充が出来ました。数日中に来ます」
 まだあどけない顔をした真ん中分けの若者―彼も新人プログラマーだが―が、はりきってそう言う。
 「私は新人だからって甘やかさないわよ」
 美佐がそう返事をする。
 「電子工学科出身の22歳で、名前は・・・木田誠一さん」
 証明写真にはトレーナー姿で七三分けの、眼鏡をした賢そうな男性が写っていた。
超高層ビル群の隙間を走る超伝導リニア。コイルの間からプラズマ放電が起こっている。スーツ姿の眼鏡で七三分けの若い男性がショルダーバッグを片方の肩と手で支えながら、もう一方の手で吊り革を握り、朝の通勤のラッシュの車内で窓の外を眺めていた。窓には理知的で真面目そうな男性の姿が反射して映っている。
 ゴオオオオ
 リニアはスピードを上げて一際高い天を衝く超高層ビルの並ぶ中心地へと向かっていく。
 ガヤガヤ
 リニアが駅に到着し、ガルウイングの様な垂直式のドアが開いて乗客が一斉に電車を降りる。男性もその駅で降りた。
 (待ち合わせ場所は確かに駅の前だったはずだ)
 男性はまだ体に馴染まない真新しいスーツ姿で腕時計を確認する。
 「木田さん」
 誰かの名前を呼ぶ声がして眼鏡の男性―新人の木田誠一の事だ―は顔を上げる。声のした方を見ると通行人の中に一人、誠一の前に立ち止まるおかっぱぐらいの長さのショートカットにレディーススーツとミニのタイトスカートというフォーマルな格好をした若い大柄な女性がいた。
 「はじめまして、シグマソフトの斉木紀子です」
 紀子が誠一に自己紹介する。
 「は、はじめまして。今日付けで言語変換ソフトの開発チームに配属される事になった木田誠一です」
 誠一がしどろもどろに話すと、紀子は固い表情から笑顔に変わった。
 「こういうの初めてだもんね。緊張しなくていいのよ」
 紀子が優しくそう言う。
 「さ、早速会社に行きましょう」
 誠一は照れを隠すようにそう返した。
 「あ、そうだったわね。案内するわ」
 誠一と紀子は並んで歩き出した。誠一も172cmあるが、紀子の方が背が高い。誠一のいかにも理系オタクといった外見と一緒に歩くのに似つかわしくない、モデル体形の紀子。
 「木田さん頭良さそう」
 紀子は誠一の顔を興味深そうに覗き込んで言った。
 「よく言われます。実際頭は良いです」
 誠一は誇らしげにそう言ってのけた。
 「シグマソフトの会社は駅から近いけど、交差点が多いわ。ここのガラス張りの50階建てのビルが目印ね。うちの会社はこんなに大きくは無いけど」
 紀子は誠一に質問しながら道案内もする。
 「でも自社ビルを持っているんですよね」
 誠一は就活中に叩き込んだ情報を披露して見せた。
 「よく知ってるわね」
 紀子は感心した様子だった。
 「それは自分が骨を埋める会社ですから」
 企業戦士の鑑みたいな事を言う誠一。
 「この会社に入ろうと思った動機とかあるの?」
 紀子が一番気になっている事を聞いた。
 「元々プログラミングに興味があって独学で学んでいた事もあるんですけど・・・大学での研究を生かしたい、世の中に役立てたいと思ったからというのもあります」
 誠一が答える。
 「プログラミングは独学なんだ」
 紀子が尋ね返す。
 「学生時代にゲーム開発のバイトをしていました。駄目ですか?」
 誠一は少し不安になって横目に紀子を見る、というか見上げる。
 「いいえ、そういう人多いわよ。物理学やってた人とか数学科出身の人とか。あなたは電子工学科を卒業したと聞いたけれど、何を勉強していたの?」
 有名なハッカーの一人、シモムラは17歳で大学に進学して物理を学んでいたなどと思い出しつつ、紀子が尋ねる。
 「大学ではマイクロチップを研究していました。回路を自分で組み立てるくらいは出来ますよ」
 近未来ではハードウェアもソフトウェアも格段に進歩している。それだけ求められる知識もより複雑化している。
 「そうなんだ。じゃあ機械が好きなの?機械を見ると気持ちが昂ぶったりだとか」
 紀子が冗談めかして訊く。紀子が歩いている姿を後ろから見ると、タイトスカートがとても短くて少し屈んだだけで下着が見えてしまいそうだ。サービスがいい。
 「ええまあ」
 アンドロイドの研究所に通う程の機械好きの誠一だが、この場は軽く受け流した。
 「着いたわ、ビルの窓にSIGMAって書いてあるでしょ・・・あっ!!」
 会社の玄関に着いた紀子は馴染みの人を見つけたような笑顔になった。誠一も紀子の視線の先に注目する。
 「おはよう美佐!」
 見るとそこには書類の束を抱えてビルに入ろうとする美佐が居た。紀子が新入社員を連れて来た事を知っていて、挑発的な小悪魔の様な表情で紀子の方を振り向いて睨み返す。
 「おはよう」
 美佐は紀子と誠一に背を向けながら挨拶を返し、金髪のロングヘアーをなびかせ紀子とお揃いのタイトスカートの腰を振りながら自動ドアをくぐって行った。
 「彼女が開発部長の久生美佐よ」
 紀子は美佐の態度を気にせず誠一に美佐を紹介する。誠一はというと美佐のいた入り口を見つめたまま頬を赤らめて呆然としていた。
 (何?この胸の痛みは)
 誠一は美佐を一目見ただけで胸を締め付けられる様な痛みを感じていた。
 (機械一筋の僕が人に恋するなんて)
 厳密に言うと美佐は人間というよりは機械に近いが、それは誠一の初恋の様だった。誠一はどぎまぎした気持ちのまま、紀子に連れられてビジネスマンで溢れるシグマソフトのロビーに入って行った。
誠一は紀子に連れられてエレベーターに乗った。誠一はドア方向に背を向けて紀子の言葉に聞き入っている。
 「うちの会社は部門毎に独立しているのヨ。主要な部門に開発部門があって、私達の居るソフトウェア部門と小さいけれどハードウェア部門とがあるわ。他には学術部門があって、これはマーケティングに近いけれど大学と提携したりしてるわ。あとは経営戦略とマーケティング、金融に総務に営業」
 手ぶらの紀子がショルダーバッグの紐を片手で握った誠一に説明する。
 「マーケティングがあったって、仕事を取ってくるのは営業なんじゃないですか?」
 誠一が尋ねる。
 「最終的にはそうなるわね」
 エレベーターが開発セクションに着き、誠一と紀子は無機質なスライドドアの並ぶ廊下を歩いた。
 「しかも開発部門は少数精鋭だからすっごく忙しいわ」
 紀子の言葉に、誠一は思わず息をのむ。
 「僕も精鋭の一人ですか・・・トホホ」
 「そんなにいじけないで。まだ早いわよ」
 スライドドアが認証されて開き、パーテーションを抜けるとパソコンが整然と並んでいる。部屋には2人の男性が居て、一人のオールバックの男性はモニタに向かいキーボードを叩いている。もう一人の真ん中分けの若い男性は奥の長机に向かって半導体をいじっている。言語変換ソフトでいつも顔を合わせるのは美佐と紀子と誠一と男性2人の計5人だ。
 「ここが私達のオフィスよ」
 紀子は背後の誠一を横目で見ながらようこそといった様子で紹介する。紀子が自分の机に向かっていくのに合わせて、オールバックと真ん中分けの2人が誠一の方を一斉に振り向く。真ん中分けの若者は机から離れてひょっこりと顔を出して目を合わせる。誠一より1、2歳年上だろうか。紀子はTPOを考えてスーツ姿だったが、2人の男性は共に私服だった。
 「よ、よろしくお願いしまーす」
 誠一は深々とお辞儀をした。

 「言語の関数の意味が分からない場合はヘルプを参照して。全部英語だけど」
 紀子が誠一に仕事を手ほどきしている。
 「英語はちゃんと勉強して来た?」
 紀子が誠一の座る椅子の背もたれに手を添えて背後に立ちながら、そう尋ねる。
 「英語の論文を読むので、ある程度は分かりますが・・・専門用語は難しいですね」
 誠一がヘルプをスクロールして感触を確かめる。
 「ネットで検索すれば大抵の単語は載ってるわよ。じゃあ次はビルドの仕方ね・・・」
 そこにいつもスーツ姿の美佐が入ってきた。
 (あ、久生美佐部長だ)
 誠一はモニタの上から顔を覗かせて美佐の姿を盗み見る。胸も腰つきも立派だ。
 (美人だなー・・・)
 金髪をすくいながら部長専用の机で書類に目を通す美佐。美人は何をしても様になる。
 (あ、こっち向いた)
 ふと誠一の視線に気付いたのか髪をすくう手を止めて顔を上げる美佐。誠一の熱い眼差しに照れたのか、それとも嫌悪を抱いたのか席を立ちオフィスを慌しく出て行こうとする。
 「ちょっと聞いてるの?木田君」
 寝耳に水の様に紀子の声が耳に入る。
 「は、はい、ちょっとよく分からないんですけど」
 誠一は部屋の様子を見に来た母親に勉強してなかったのがバレそうになった子供の様に、慌ててモニタに視線を戻した。
 「そうなの・・・じゃあ機能の詳細が書かれた本があるわ。おーい、野々村ー持って来てー!」
 紀子が藪から棒に背後に向かって指示すると、半導体をいじる作業をしていた真ん中分けの若者がそれに気付いてダッシュで本棚に向かう。
 「これだよね」
 野々村は辞書の様な分厚い英語の本を取って来て誠一に渡した。
 「ありがとうございます、野々村さん」
 誠一は受け取った本をパラパラとめくる。
 「その本は熟読してね。あと分からない事があったらいつでも聞いて」
 紀子は自分の机に戻って行った。

昼休みになり、誠一は紀子達上司に連れられて食堂に来ていた。
 「ご注文はお決まりですか?」
 中華料理の店だからか片言の若い店員が注文を取りに来る。
 「私はランチ」
 紀子がまず注文する。
 「木田君は何にするの?」
 野々村が尋ねて来た。
 「じゃあ僕はチャーハンとラーメンのセット」
 誠一が注文した。
 「この店は量が多いよ。若いからいっぱい食べるよね」
 野々村が勝手に納得している。
 「こっちもランチ」
 野々村も注文した。
 「俺もランチ」
 オールバックの男性が最後に注文した。
 「ランチ3、セット!」
 店員が厨房に向かって声を上げる。厨房からは料理を炒める勢いの良い音が聞こえてくる。
 「久生部長は来なかったんですね?」
 誠一が気になっている事をきり出す。
 「美佐は食べないのよ」
 紀子が一応説明した。
 「ダイエットでもしてるんですか?」
 何も知らない誠一が疑問に思って言う。
 「まあそんなものね」
 紀子ははぐらかした。
 「部長って何歳なんですか?」
 誠一が尋ねる。
 「美佐は25歳。まだ部長になって日が浅いのよ」
 紀子がそう言って水を飲む。
 「25歳ですか!若いですねー。斉木さんは何歳ですか?」
 誠一は美佐が思ったより若かったので驚く。紀子にも年齢を尋ねた。
 「私も美佐と同い年よ。美佐の方が出世したけど」
 紀子が返事する。
 「木田君は何歳だっけ?」
 紀子が逆に尋ねる。
 「僕は22歳です」
 誠一はそうは見えないが年齢を答えた。
 「22歳!?若いわねー」
 紀子はあまり変わらない年齢だが驚いて見せた。
 「チャーハンとラーメンお待ち」
 店員が誠一の料理を運んでくる。
 「すごい量ですね」
 誠一はチャーハンを口にした。
 「木田君、美佐には逆らわない方がいいわよ」
 紀子が自分に運ばれて来たランチに箸を伸ばしながら言う。
 「そうなんですか?」
 誠一が返事する。
 「そう。逆らったらクビよ」
 紀子が念を押した。備え付けのテレビからは世界情勢のニュースが流れていた。

 会社に戻って来て、誠一は分厚い本を広げて再びパソコンに向かった。ソースコードを読み進めていく。
 「うちで使っている言語は理解出来た?」
 そこに仕事の手を休めて美佐がやって来た。
 「あっ部長!フォーマットは基本的な言語と共通しているので、参照するヘルプやテキストさえあれば何とか理解出来ます」
 誠一は美佐が初めて話しかけて来た事に驚き、上ずった声でそう答えた。
 「そう。じゃあ早速仕事を割り当てるわね。この機能を書いて頂戴」
 美佐はたじろぐ誠一に仕様書を渡した。
 「美佐!まだ早いわよ」
 紀子が自分のデスクから様子を見ていたが、そう意見する。
 「本人が出来るって言ってるんだから出来るのよ。ねえ木田?」
 美佐が薄笑いを浮かべながら誠一に尋ねる。誠一は美佐に呼び捨てにされて悪い気はしなかった。
 「分かりました」
 誠一は仕様書を受け取って解読し始める。美佐は上機嫌な様子で自分の机に戻って行った。

 夜8時になり、定時では無かったが出勤1日目の誠一は帰れる事になった。
 「木田君、1日出社してみて感触はどうだった?」
 紀子が背中を伸ばしながら誠一に尋ねる。
 「手ごたえはありました」
 誠一は疲れ目をこすりながらそう答えた。
 「お疲れ様、明日も頑張ってね」
 紀子がショルダーバッグを担いで帰ろうとする誠一に声をかける。誠一は部長の机の許に歩み寄る。
 「部長、お先に失礼します」
 誠一は美佐に挨拶した。
 「お疲れ様」
 美佐が挨拶を返してくれた。
 (く、久生部長が"お疲れ様"って言ってくれた!感動する~)
 廊下に出た誠一はガッツポーズを取って喜んでいた。

 「それでは人工生体のクリーニングを始めますね」
 深夜の国立病院にて、美佐の体を丁寧に拭き始めるお付きの看護婦。
 「脳からリラックスする脳内物質が出てるわ」
 美佐は検査衣を着て人工生体用のリクライニングチェアに横たわっている。
 「シリコン製の皮膚に内蔵された触覚センサーが働いていますからね」
 美佐の頭部には電極が装着され、脳波などを計測している。
 「職場で何か変わった事はありましたか?」
 看護婦がさりげなく生活の様子を訊いて来る。
 「今日新入社員が来たわ」
 新入社員とは誠一の事だ。
 「どうなんですか?最近の若者は」
 看護婦が美佐の人工生体の各部のカバーを開いて、中のデバイスの状態を確認する。
 「なかなか筋はあるみたいよ、あのメガネ」
 美佐は誠一の眼の隠れた眼鏡姿を思い浮かべていた。
 「眼鏡かけてるんですか?」
 看護婦が訊く。
 「そうよ」
 美佐はそう答えた。
 「今夜はラボに入って集中検査しましょうか」
 看護婦が入り口へ行ってドアを開ける。
 「手短かにね」
 美佐はリクライニングチェアから立ち上がって別室に向かった。
また朝が来て、美佐はオフィス内を慌しく行き来していた。ハイヒールで闊歩する度に、タイトスカートが変形して窮屈そうにお尻が強調される。
 (はわわ~、ぶ、部長~)
 誠一はそれを見逃さなかった。またある時は何気ない表情に不釣合いな美佐のたわわな胸元や、悩ましげに組まれた美佐のまっすぐに伸びた白くてふくよかな脚だった。
 「はァ~、いいなあ・・・」
 誠一は休憩の時間に同僚の野々村とカフェ・ラウンジでお茶をしていた。誠一は肘をついて顎を掌に乗せ、美佐の事を思い出して物思いに耽っている。
 「部長?」
 同席する野々村がストローでソフトドリンクを飲みながら、誠一の顔を覗き込んで美佐の事を言っているのかと尋ねる。
 「あ、分かる?」
 誠一はにやけながら尋ね返した。
 「見てりゃ分かるよ・・・部長の事見る時鼻の下伸びてるよ?」
 誠一以外の全員が気付いている様だった。当の美佐は半分気付いていない様子だが。
 「野々村さんはいいと思わない?部長の事」
 誠一はコーヒーを飲みながら野々村に同意を求めた。
 「そりゃ美人だとは思うけどさ・・・うちの女性はね・・・」
 野々村はグラスを指でつついている。
 「それも欠点の見つからない美しさだよなあ・・・」
 誠一にとっては高嶺の花の様な気もするが。
 「まあ確かにね」
 野々村も誠一の話を聞いていてそんな気がして来た。
 「何て言うか・・・僕の好みにズバリ的中~」
 誠一は夢中な表情でどこか遠くを見上げながらにやけている。コーヒーからは湯気が立ち上っている。
 「そんなにいいんだ。じゃあさ」
 野々村が誠一に何かを提案しようとしている。
 「まさか」
 誠一は勘付いた様だ。
 「そう。そのまさかだよ・・・彼女って俺がここに来た時から仕事熱心で俺もロクに話した事無いんだ・・・今度話しかけてみよう。その時告白してみれば?」
 野々村が誠一に美佐に告白する様に提案した。
 「いいね。じゃあタイミングを見計らって」
 まだスーツ姿の入社間もない誠一と少し先輩の野々村がカフェ・ラウンジを後にした。

 誠一と野々村の作戦会議から1週間経ち、一方の美佐はオフィスの給湯室で一人コーヒーを注いでいた。コンピュータは暑さにも寒さにも弱いので、コーヒーを飲むのはコンピュータを温める為の行為だろうか。またはどちらかというとただ香りを楽しみたいとも言えるかもしれない。何気なくコーヒーを注ぐ行為にも、複雑な機構が絡んでいる。ハイヒールが美佐の全身を支えている。人工生体だからなのか、美佐はまばたき一つもしないで静止したままだ。給湯室ではコーヒーの湯気だけが動いている。
 「部長」
 ふと自分を呼ぶ声がして美佐はテーブルの置かれたダイニングの方を振り返る。それにしても内股になった美佐のタイトスカートが短い。見るとそこには首元からシャツの襟が覗いたトレーナー姿で頬を紅潮させた笑顔の誠一と、その後ろで目を閉じて口許を綻ばせた野々村が立っていた。
 「木田・・・どうしてここに?」
 美佐は少し警戒する様子だった。美佐だって女性だ。ここは逃げ場の無い給湯室で目の前に男性が2人立っている。
 「そうです、木田誠一です。こうして話すのは2回目ですね」
 2回目の会話で告白しようとしているのもどうかと思うが。
 「何か用?」
 美佐は気を取り直して姿勢を正し部長として対応した。誠一も両手を腰に当てており、その態度は技術者然としていて、とてもこれから下世話な話が始まるとは思えない。
 「部長、少し時間頂けますか?」
 全く遠慮する所の無い誠一。理知的な上に行動力もあると言うのか。
 「いいけど」
 意外と話の通じる美佐。
 「それでは、僕の思いを聞いて下さい」
 誠一はこれから歌でも歌い始めるかの様な、または未成年の主張の様な切り口で話し始めた。
 「は・・・初めて見た時とてもキレイな人だなと思って」
 誠一は思いの丈を打ち明ける。しかしキレイな人という言葉を聞いて美佐の表情が曇った。
 「えと・・・あの、僕と仲良く・・・」
 誠一はこれでもセカンドトークの美佐に付き合いたいと控え目に打ち明けたつもりだったが。
 「・・・私をからかってるの?」
 美佐の口から出てきたのは誠一を突き放す一言だった。
 「そうなんです、からかっててって・・・え?」
 誠一は状況に対応出来ないのか、後頭部を掌で押さえて照れ笑いを浮かべたまま美佐が上司という事も忘れてタメ口を発しながら呆気に取られている。
 「そんな冗談を言って・・・」
 美佐は人工生体の顔や姿を褒めて口説くなんてどうかしてると思ったのだったが、何も知らない誠一に伝わるはずが無かった。
 「私の気持ちを弄んでいるのね」
 美佐は眉を吊り上げて口許をきつく結び俯いてしまった。
 「ち、違います!僕は本気で・・・」
 誠一は慌てて好きという本心を包み隠さず訴えるが、後の祭りだった。何なんだこの言葉のすれ違いは。
 「マトモに取り合った私が馬鹿だったわ」
 美佐は給湯室から立ち去ろうとする。
 「ちょっと待って下さい、久生さん!」
 誠一がそれを遮る。だがそれは火に油を注いだだけだった。
 「いい加減にして!!」
 美佐が誠一の事を突き倒して給湯室からダイニングに出て行く。軽々と飛ばされる小柄な誠一。
 「久生部長・・・!」
 野々村が美佐を引き止めようとするが、それも無視して美佐は外に出て行ってしまった。
 「イテテテ・・・」
 誠一はしたたかに腰を打った様で、痛そうに上体だけ起こして顔をしかめている。
 「大丈夫?木田君・・・」
 野々村が美佐の居なくなった方と倒れる誠一を交互に振り返りながらオロオロしている。
 「・・・大丈夫じゃないよ、腰の痛みとかそういうのじゃ無くて」
 誠一は美佐にあっさりフラれた為かすっかり傷心の様子だった。美佐は誠一に対して突き放した様な所があったが、まさかこれ程だったとは。
 「俺のせいだ・・・俺が君を告白しようなんて誘ったから・・・」
 野々村は頭を押さえて左右に振っている。
 (僕はただ部長にYESと言って欲しかっただけなのに・・・僕の何がいけないんだ?)
 誠一は眼鏡の奥の視線を細めて考え込む様子だった。それは人工生体の美佐と、それを知らない誠一との言葉のすれ違いが起こした悲劇だった。
誠一が美佐に告白してフラれてからも、表向き部下と上司として変化は無い様に見えたのだが。
 「部長、ここはフーリエ変換を応用してみました。確認して下さい」
 誠一が数式の書かれた書類を差し出す。
 「そうなの」
 美佐が無言になって書類に目を通している。
 「どうですか」
 誠一が緊張の面持ちで美佐に尋ねる。その時つい美佐の胸元を見てしまう。
 「ダメね」
 美佐は書類を下ろしてしまった。
 「えっ」
 誠一は自信があったので、はぐらかされた様な気持ちになる。
 「これじゃ私が思ったのと違うのよ!こんなのでいいと思ってるの!?やり直しよ!!」
 美佐は書類を机にバンバンと叩きつけて、誠一から目を背けたまま眉をしかめて怒り出した。
 「すみません、部長・・・」
 誠一は美佐が怒っても美人のままだなとか内心思いながらうなだれて見せた。
 「余計な事を考えているから仕事に気が回らなくなるんじゃないの!?」
 美佐は誠一の視線や複雑な気持ちを知ってか知らずか、誘う様な腰付きで部長用の高級な重役椅子を戻して腰掛けた。
 「分かったら自分の席に戻って」
 美佐は誠一に近寄るなと言わんばかりに手を下向きに振ってパソコンに視線を移した。
 「はーい・・・」
 誠一は親しみを持った二つ返事で戻ろうとしたが。
 「何よその口の利き方は!口の利き方に気をつけろ!!」
 誠一の返事は美佐の逆鱗に触れてしまった。
 「すっすみません!」
 誠一は深く頭を下げて、机の一角の自分の席にそそくさと戻って行った。
 「美佐ってば木田君に対して一層当たりが強くなったわね・・・何かあったの?」
 誠一と美佐の様子を観察していた紀子がヒソヒソと野々村に話しかける。
 「さ、さあ?俺には分かりませんが・・・」
 野々村には自分の提案で誠一が美佐に告白してすぐにフラれた事を打ち明ける事は出来なかった。
 「あ、戻って来た」
 紀子は誠一が椅子に座ると立ち上がって近付いて行った。
 「木田君、あなたはまだ入社して一月経ってないのに十二分に働いてるわよ」
 紀子が俯く誠一の肩をポンポンと叩いて慰める。
 「部長厳しいです・・・いろんな意味で」
 誠一から口をついて出て来たのはそんな言葉だった。
 「美佐の要求に応えようと思ったら体一つじゃ足りないんだから」
 確かに美佐は自分にも厳しかったが、他人にも厳しい上司だった。
 「ちょっと紀子、聞こえてるわよ」
 美佐が椅子から斜めの姿勢になって紀子にツッコむ。
 「だって聞こえる様に話してるんだもん」
 紀子が返事する。誠一がちょっと笑顔になって背後に立つ紀子を見上げた。
 「じゃあやめて」
 美佐が真剣な様子で言うと、紀子はくせなのか笑顔のまま舌を出して自分の席に戻って行った。

 仕事が終わり、夜になって誠一はリニアに揺られて帰宅の途に就いていた。
 (部長は美人だしスタイルも良いけど性格がな・・・)
 誠一は周りの吊り革に掴まったスーツ姿のサラリーマンやOLとは異なり、1人だけトレーナーにジーパン姿で両手を膝に付いて22歳の新人だと言うのに課長クラスの表情を作って座席に座っていた。
 (久生さん・・・)
 誠一はスマホを取り出し、画像フォルダを呼び出して盗撮した美佐の写真に見入っていた。スーツ姿で颯爽とロビーを歩く美佐の横顔。まるで美佐の居るそこだけ空気が浮ついているかの様で、見ているだけで元気が出る。
 ヒュウウウ
 リニアが駅に到着して減速する。電車を待つ人々の列の中から、金髪で長身の女性が目に飛び込んで来る。
 ハッ
 誠一は電気に打たれたかの様な感覚に陥った。金髪の女性が乗車するのを目で追う。
 (久生部長にそっくり・・・いや同じ!?)
 誠一は美佐の顔を見る時と同じ条件反射で赤面しながら、金髪の女性を見ていた。女性はワンピースの上にセーターを羽織っていて、窮屈そうにワンピースの胸の部分を変形させた巨乳が目を引く。モデルだと言われても納得してしまう優美な外見。
 (そっくりと言うより・・・まるで生き写しだ)
 誠一は少しキツめの印象のある美佐と同じ顔をした女性がワンピースを着ている事に違和感を覚えながら、進み出したリニアの中で金髪の女性に見とれていた。
リニアの窓の外では景色が流れて行く。誠一は女性が席に座ってからも、ずっと女性の方を見ていた。
 (顔が似ているだけじゃなくて、しているピアスまで同じ様な気がする・・・)
 誠一は職場で美佐が目立たない地味な物だがピアスをしているのを見逃さなかった。それだけ美佐の事を観察しているという事だろうか。
 ゴー
 リニアが加速していく。女性は正面を向いていた。瞳だけを動かして誠一の方を見ると、自分に見とれているだらしない誠一の表情が視界に飛び込んで来る。
 (誠一・・・)
 女性は心の中で誠一の名前を呼んだ。女性は誠一の事を知っている様だった。
 (来て・・・)
 スッ
 女性は美佐の住む都心のマンションの駅でも無く、誠一の住む郊外程遠くも無い駅でリニアが停まるのに合わせて、席を立つ。誠一には気付かれない様に背を向けた状態で、微笑みを浮かべながら。
 ハッ
 今美佐に似た女性を見失ってしまったら、もう二度と会えない。そんな予感が誠一にはあった。
 プシー
 閉まろうとするリニアのガルウイングの様な縦開閉のドアを急いですり抜けて、誠一も金髪の女性を追ってリニアを降りた。
 リニアを降りた女性は誠一に話しかけられるのを待ちながら、街の通りを練り歩いて行く。女性と誠一の追いかけっこが始まった。しかし何せ女性は歩くのが早い。誠一もタイミングを探っていたが、辺りは暗闇というのもあってどんどん距離が離れていってしまう。
 「どこへ行ったんだろう・・・?」
 誠一は女性も通ったビルの谷間の深夜のショーウィンドウの前に差し掛かって、進行方向を見遣る。
 「久生さん・・・?」
 誠一は思わず美佐の苗字を呼びながら、女性が入って行ったと思しき一際暗い袋小路の方へ向かって行く。こんな暗い道は女性が一人では歩かないだろうと思うような所だった。
 「ねーちゃんひとりー!?」
 暗闇を進むとドスの利いた男の声が聞こえてくる。悪い予感が誠一を襲う。
 「!」
 誠一は女性を見つけたが、女性は20代中盤くらいのチンピラのような男3人に囲まれていた。
 (久生さん・・・こんな所に一人で来るから・・・)
 誠一は多勢に無勢と判断して女性とチンピラ達の様子を離れた所で伺っていた。
 「な・・・何するんですか!?」
 女性は自分を取り囲むチンピラ達を不安そうに片手を胸の上に置きながら、キョロキョロと振り返っている。
 「ヘッヘッへ、こんな所に一人で来るなんて、物騒な女だな」
 チンピラのうち女性の正面に立つ男が、ヘヘヘと笑いを浮かべながらワンピース姿の女性の全身を品定めする。
 「それともナンパ待ちなの?」
 帽子を被ってスカジャンを着た細身の男が、横槍を入れる。
 「ち、違います!止めて下さい!」
 女性は危険を悟ったのか、逃げ出そうとするが。
 グッ
 「ヒッヒッヒッヒ」
 帽子にスカジャンのチンピラの一人が女性の腕を掴む。
 「俺達と付き合ってよ・・・」
 正面のチンピラが仲間に目配せしてすぐ傍にあった裏路地に踵を返して歩いて行く。
 「オラァこっち来いよォ!」
 スカジャンのチンピラが女性を背後から押して裏路地に連れ込もうとする。それに素直に従ってしまう女性。それを遠くから見ていた誠一の腕が震える。
 (このままだと彼女が!!)
 誠一の面前を風が吹き抜ける。まるで姫を助けようとするアキバ君の様なシチュエーション。
 「フフフ、ここまで来たらもう大丈夫だろ・・・」
 チンピラ3人は女性を裏路地に連れ込み、目の前で怯える女性に対して背後から笑顔を見せる。ところが。
 「おまわりさーんこっちです!!」
 誠一の声で警察を呼ぶ?声がする。
 「やべっサツか!?」
 チンピラ達は誠一の声を聞くと途端に大騒ぎになる。
 「チッ!」
 チンピラ達が女性から離れて一目散に逃げ出すと、女性は自分の体を抱きながらその場に崩れる様にしゃがみ込んだ。
女性はしゃがみ込んだまま、声のした背後を見上げた。そこにはショルダーバッグを提げた誠一が居た。
 「大丈夫ですか?」
 誠一は女性を見下ろす。女性に外傷は無い。
 「ウン、平気」
 女性は立ち上がって誠一の方を向いた。足許には誠一はスニーカー、女性はヒールの低いパンプスを履いている。
 「あなたが助けてくれたの?」
 女性は屈託の無い笑顔を浮かべて誠一を見つめる。女性は美佐と同様に誠一より背が高いので誠一は見下ろされている。それにしてもチンピラに襲われかけた事も計算ずくだったかの様な、確信犯の様な笑み。
 「ええ」
 誠一は女性を見上げながら返事をした。
 「ありがとう。私はルナ」
 ルナと名乗る女性は顔を斜めに傾けて髪を垂れさせながら、小さな顔で愛嬌のある微笑みを見せた。
 「ルナって言うんだ・・・月と言ったら、月は無慈悲な夜の女王」
 誠一はそう自分の知識をひとりごちて見せた。
 「知ってるわ。ロバート・A・ハインラインの小説ね」
 ルナはAIが瞬時に情報を検索した様な速さで相槌を打って見せた。
 「僕は木田誠一。プログラマーなんだ」
 誠一はそう言って担いでいるパソコンをブラブラと揺らして見せた。
 「誠一・・・いい名前ね」
 ルナは更におたずね者を発見したハンターの様な目つきになって誠一を見下ろす。
 「それにプログラマーなんだ・・・じゃあAIとか機械の事に詳しいの?」
 もしルナが実は美佐だったとしたら誠一の名前も電子工学科出身のプログラマーだと言う事も知っているハズだが、ルナは白々しくと言っていいのか、誠一に素性を訊く。
 「詳しいどころじゃなくて、部屋ではいつも機械いじりをしてる」
 誠一は少し照れくさそうに人差し指で顔を掻きながらルナを見上げる。
 「私も機械好きよ」
 ルナは機械オタク発言をした誠一に対してためらう事も無くそう即答した。もしもルナが美佐だったら、美佐も機械の身体なので機械とは親和性を感じるのだろうか。
 「えっそうなの!?僕達気が合いそうだね!そもそも機械というのは人間の身体の一部の延長上にあって、それは身体の外部装置とも呼べるもので、でも身体とは異質な物であって・・・」
 誠一はルナのその言葉を聞くと、堰を切ったかの様に延々と機械について語り始めた。
 「うんうん」
 ルナは嫌がる事も無く誠一の薀蓄に耳を傾けている。
 「ロボットという言葉はチェコスロバキアの小説家が用いたのが始まりで・・・って、時間大丈夫?」
 誠一はしばらく熱弁を振るっていたが、黙って聞いているルナにも私用があるのではないかと思い至る。
 「・・・ねえ、分かる?」
 ルナは不意に誠一の手を取って自分の胸を掴ませた。誠一は思わずぶっと息を吹いてしまった。
 「すっごくドキドキしてるの」
 誠一は胸の柔らかい感触を手に受けながら、心臓の鼓動を確かめようとした。しかしそれは聞こえてこない。
 「・・・よく分からないけど」
 誠一は自分が緊張のあまりルナの心臓の鼓動が確かめられないのだろうと考えた。
 「ごめん。今のは忘れて」
 ルナは誠一に謝りながら、誠一の手を下ろした。
 「・・・ルナの胸、柔らかかった」
 誠一は嬉しそうに頬を紅潮させて笑っている。
 「そう」
 ルナもまんざらでは無さそうだ。
 「あの・・・」
 誠一は自分の手を掴んでいたルナの手を逆に握りしめて、ルナに切り出す。
 「僕の部屋で少し休んで行きませんか?」
 そう言う誠一の表情からは下心などは読み取れなかった。
 「エスコートしてくれるの?」
 ルナは予想以上の進展に驚きを隠せない様子だった。
 「行こう、ルナ」
 誠一がルナの手を引くと、ルナはそれに従い誠一に寄り添って歩き出した。ルナの方が背が高いのでそれは姉が弟に寄り添っているかの様に見えた。
 誠一はマンションのオートロックを開け、エレベーターに乗り込んだ。いつもは一人だが、今は隣にルナが居る。
 「ここに越して来てからまだ会社の人も来てないから、初めての来客だよ」
 初めての来客が一目惚れするレベルの美女だという事は、予想の斜め上を行っていたが。
 「会社で気になる人とか居るの?」
 美佐と生き写しの顔でルナがそう訊いて来る。
 「まあ・・・ね。片想いなんだけど」
 誠一はエレベーターの点灯する表示板を見つめながら無意識にそう呟いていた。さすがにルナと美佐が瓜二つという事はルナには言えなかった。
 「12階だ。着いたよ」
 誠一とルナは並んだドアの列を歩いて行く。誠一は手慣れた様子で自分の部屋のドアを解錠する。玄関に入り急いで照明を点け靴を脱いだ。
 「さあどうぞ」
 誠一は玄関に立ったまま興味深そうに部屋の内装を見つめているルナに、靴を脱いで部屋に入るように促した。
 「・・・私が住んでいる所より新しいわ」
 ルナは肢体をくねらせ脚に手を伸ばしてパンプスを脱ぎながら、そう感心して見せた。
 「そうなの?ルナさんが住んでいる所ってすごく興味が湧くけど」
 誠一はルナの胸元に見とれながら、ルナにそう訊いた。
 「私がマンションに住んでいたら変?」
 ルナは素足のまま玄関に立ち止まって誠一と話している。
 「ううん、でも住んでいる所も食べている物もよく分からない感じ。いい意味で」
 誠一がそう話すと、ルナは素っ頓狂な表情をして見せた。
 「お花畑に住んでいた方が良かった?」
 ルナはワンピース姿の自分のイメージを連想してそんな事を言った。
 「かもしれない」
 誠一は半笑いになって上ずった声でそう返した。
 「まったく・・・」
 ルナが呆れると、誠一は思わずハハハと笑い出してしまった。
 「さあ入って、どこにでもあるワンルームマンションですけど」
 誠一はかしこまった様子になったルナを先導して居間のドアを開けた。
 「今コーヒー淹れるから待ってて」
 誠一はルナを居間に置いて対面式キッチンへと向かった。
 「気を遣わないで」
 ルナはどこかおぼつかない様子で誠一の背中に話しかける。
 「いいからいいから。とっておきの一杯があるんだ」
 誠一は一瞬立ち止まったが、すぐにルナの言葉を打ち消して再び台所へ向かう。
 「・・・それじゃ、お言葉に甘えて」
 ルナは腰を屈めてローテーブルの前に正座になった。
 「ルナはコーヒー作って友達に振舞ったりするの?」
 誠一はキッチンの全自動コーヒーメーカーを起動させる。手作業で淹れてない事をルナは知らない。機械によってコーヒーペーパーが1枚セットされ、その上に挽かれた豆が注ぎ込まれる。
 「そうね。たまに同僚が遊びに来る」
 ルナがそう答えた。
 「そうだよね、ルナは新人の僕より年上に見えるから、もう部下に手を焼いている様な立場なんだよね」
 老け顔の誠一より年上に見えるとは、女性に対しては失礼な気がするが。
 「ああ言ってなかった?僕これでもまだ22歳なんだ」
 誠一が対面式キッチンから顔だけ覗かせて話しかける。ルナはそう言われて誠一の顔を見つめる。
 「話していると結構年下だって分かるわよ。顔はそう見えないけど」
 ルナは誠一が想定した通りの返事をして見せた。
 「そうなんだ・・・ところで、ルナの同僚ってどんな人なの?」
 誠一はカップに落ちるコーヒーの雫を見つめながらルナに訊く。
 「とっても親切で素直で、いい女性よ」
 ルナが美佐の顔でそう答えるので、誠一は頭の中で紀子の事を思い浮かべてしまった。
 「誠一が会社で気になっている人はどんな女性なの?」
 今度はルナの方から尋ねる。
 「美人で頭もいい、僕の理想の女性なんだ・・・フラれちゃったけど」
 ルナと同じ顔とは言えず、美人だと言葉を濁した。
 「告白したんだ」
 ルナは行動力のある誠一に驚いた様子だった。
 「やっぱり失敗だったかな?・・・告白せずに波風立てないでおいた方がよかったかな」
 誠一が俯き加減になって言う。
 「いいえ、告白してよかったと思うわ」
 ルナは誠一の行動を賞賛する様に言った。
 「どうして?もう彼女との脈は風前の灯火なんだよ」
 誠一は職場で肩身の狭い思いをしている事を思い出した。
 「戦いもせずにあきらめるよりも、何かを求めて傷付く方がいいのよ」
 ルナがどこかから引用した様な言葉で誠一を勇気付ける。
 「そうかな?」
 対面式キッチンの向こうの誠一の表情が少し明るくなった。
 「告白したのは何人目なの?」
 ルナが念の為に聞いておく。
 「いや、これが初めてで・・・」
 誠一は美佐が22歳にして初恋の相手だった。
 「そうなの。じゃあ言い方が悪かっただけじゃない?」
 ルナのプラス思考には頭が下がる。
 「え?僕はただキレイだから仲良くしてって言っただけだけど・・・」
 誠一は告白した時の事を思い出した。
 「悪くは無いわね。でもどこかその女性にとって気に障る点があったのかもしれない」
 ルナは何でも分かっているかの様だ。
 「やっぱり・・・」
 誠一は身に覚えの無い美佐の冷たい仕打ちにやっと納得がいった様な気がした。
 「あきらめずにアプローチを続ければ、いつか思いは通じるわよ」
 ルナは誠一が自分に美佐を重ねる気持ちを知ってか知らずか、あきらめて欲しく無いといった様子だった。
 「ルナ・・・ありがとう」
 誠一はルナの前では等身大の自分で居られる様だった。ルナに感謝の気持ちを述べた。
 「そんな・・・誠一」
 ルナは瞳を閉じて長い睫毛を目立たせながら、微笑んで謙遜して見せた。
 「ルナって本当にいい人だね」
 誠一はローテーブルの前に座るルナを見つめながら言う。肢体の線にフィットしたワンピースが、正座している膝で曲がって脛の半ばまで伸びている。ワンピースの上にはパステルカラーのセーターを羽織っている。
 「ありがとう。こんな私でよければ」
 ルナがワンピースのスカート部分を伸ばして脚を隠しながら、誠一に言い返した。
 「そろそろコーヒー出来るからね」
 誠一が全自動コーヒーメーカーに視線を戻す。部屋が沈黙に包まれる。
 「・・・・・・」
 ルナは誠一の部屋を眺め始めた。
 「誠一、そういえば部屋をきれいにしてるわね・・・」
 ルナが感心した様に言う。
 「汚した後に掃除するのが手間だから、初めから汚さない様にすればいいっていう発想だからね」
 そう言いながらルナを突然部屋に呼んだので、いつもきれいにしておいてよかったと誠一は思った。
 「好きなもので部屋を埋め尽くしたらこんな風になっちゃったって感じ」
 誠一の部屋は一人暮らしにしては物で溢れていて、情報の洪水の様だった。
ルナが誠一の部屋を眺め回していると、本棚が目に飛び込んで来た。その中に同じ装丁の本が並んでいて、右から制御理論、電磁気学、アルゴリズム、ニューラルネットワーク、マイコン制御、AI、知能機械、回路設計、数学と書かれている。
 「難しそうな本が並んでいるわね・・・」
 ルナが本のタイトルを見て感心した様に言う。
 「様々な分野の本を満遍なく読むんだ。ハードウェアとソフトウェアの両方が僕の専門分野だからね」
 野球で言ったらピッチャーで4番くらいの二刀流といった感覚だろうか。誠一がそう言った。
 「頼もしいわね」
 アンドロイド分野で言ったら人工生体と制御AIの両方が理解出来るという事だから、ルナはそう言ったのだろう。
 「ルナは何か興味を持つ本はあった?」
 誠一が尋ねる。
 「ニューラルネットワークはAIに関する技術よね」
 ルナはAIに興味を持ったようだ。
 「そうだよ。ニューラルネットワークについて勉強した事があるの?」
 誠一が更に踏み込んで尋ねる。
 「バックプロパゲーション、非線形関数よね」
 ルナがニューラルネットワークについてそう説明する。
 「よく分かるね!偉いよルナ」
 今度は誠一が感心する。
 「誠一が知っている知識なら何でも知っているわ」
 ルナがそう答えた。
 「へえー、コンピュータのデータベースみたいだね」
 誠一が思った事を口にする。図星だったのかルナは黙って部屋を眺める作業に戻った。
 「好きなアーティストのCDとか、漫画本とかは無いの?」
 ルナが本棚やその周辺を眺めながら尋ねる。
 「何それ美味しいの?」
 誠一はそれらに関する知識が全く無い様だった。
 「誠一って一体・・・」
 ルナは呆れた様子でそう言った。
 「僕にはルナが居るからいいんだよ!はいコーヒー」
 誠一はキッチンから2人分のコーヒーを持って来て1つをルナの手許のローテーブルの上に置いた。
 「ありがとう」
 ルナはコーヒーを口に運んだ。薄いピンク色のルージュが器に付く。
 「どう?コーヒーの味」
 誠一はドキドキしながらルナにそう尋ねた。
 「ええ、体が温まってとてもいいわ」
 味を尋ねられたのに回答になっていない気がするが、ルナがそう答えた。
 「何杯でも飲みなよ。また作るからさ」
 誠一もコーヒーを飲んで味を確かめる。
 「ありがとう」
 ルナはコーヒーを更に口に運んだ。
 「そうだルナ、いい事思いついた」
 誠一はそう言うと突然立ち上がって正座するルナの背後に回った。
 「えっ何・・・?」
 ルナは突然の事にたじろいでいる。
 「肩揉んであげる」
 そう言うと誠一はルナの肩を力強く握り始めた。
 「これは・・・どういった風の吹きまわしなの?」
 ルナは嬉しさ半分戸惑い半分でそう訊く。
 「ルナいつも肩こってるのかなーと思って」
 誠一がルナの胸を背後から見下ろしながら言う。
 「肩はこらないけど・・・あっ、ちょうどいい感じ」
 ルナはちゃっかり誠一の手加減に指示を出している。
 「ルナの肩幅広いね、頼もしい」
 ルナは背が高い為か女性なのに肩幅も広かった。
 「今度は私の番よ、座って誠一」
 ルナが不意に立ち上がって誠一の背後をとり、肩を押さえる。
 「あ、ちょ、まっ・・・」
 誠一は抵抗したつもりだったがあっさりとその場に座らされてしまう。
 「フフッ」
 ルナは笑みを漏らすと華奢な指で誠一の肩を揉み始めた。
 「どう?誠一」
 ルナが顔を乗り出して背後から誠一の表情を覗き込む。
 「嬉しい・・・」
 誠一は眼鏡を光らせて抑えた声でそう言い、口元を綻ばせた。 
ルナは誠一の肩揉みをちょうどいい時間で止めると、誠一の肩をポンポンと叩いた。
 「肩揉み終わり!」
 ルナはそう言うと誠一の隣に腰を下ろした。
 「どうだった?誠一」
 ルナが誠一に訊く。
 「ありがとうルナ。感動した」
 誠一は好きな女性に肩を揉んでもらえるという予想の斜め上をいった展開に喜びを噛み締めていた。
 「また今度会えたらもう一度出来るわね」
 ルナは誠一と再会する事を仄めかしていた。
 「そうだね」
 誠一は次回の事にまで頭が回らない様子だった。
 「ところで、部屋はもう全部見終わった?」
 誠一の方からそう切り出す。
 「ああ、そうだったわね」
 ルナは立ち上がって部屋の隅々をつぶさに観察する。
 「これは何をする装置なのかしら・・・」
 ルナは棚の上に置かれている機械部品に見入っている。それは機械装置が二段に積まれていて、それらが複数の配線によって繋がれているというものだった。
 「それは自作ラジオだよ」
 誠一はローテーブルの下に足を投げ出しながら、機械部品を興味深そうに見つめるルナに説明している。
 「ラジオって自分で作れるものなのかしら?・・・」
 ルナは自作ラジオだという機械の表示板に見入りながらそう呟いた。 
 「ハンダ付けが結構大変なんだけどね」
 誠一は一人で勝手に説明を続けている。
 「わあーっっ!!」
 ルナが突然黄色い声を上げる。
 「ど、どうしたの突然・・・」
 誠一は驚いてルナの方を見遣った。
 「何これカワイイね、クマさん?」
 ルナは機械部品の列の中に置かれた小さなシンバルを持った熊のぬいぐるみに顔を近づけて喜んでいる。
 「それは楽器を叩く目覚まし時計」
 誠一がそう説明する。ルナは母性愛を含んだ様な笑顔で熊の目覚まし時計を見つめている。どこか作られた顔の様なルナと、機械の熊のぬいぐるみとの視線の交差。それは不思議なシンパシーの様なものを感じさせた。
 「ずいぶん興味津々だね、ルナ」
 誠一が周りの見えない様子のルナにそう話しかける。
 「これ動くの?」
 ルナが楽器を叩くぬいぐるみを指差して誠一に尋ねる。
 「ああ、動かしてみようか」 
 誠一はぬいぐるみを持つと背中のネジを回して目覚ましのなる時間を現在時刻に合わせた。
 パンパンパパパンパンパパンパパン
 ぬいぐるみの腕が動いて一心不乱に楽器を叩く。
 「わーカワイー!」
 小さな腕で一生懸命に楽器を叩く様子と大きな目をした可愛らしい外見とのギャップが笑いを誘ってしまう。
 「デパートのおもちゃ売り場で見て一目惚れさ」
 誠一が膝立ちになって年甲斐もなく手を合わせて喜ぶルナに背後から説明する。
 「楽器を叩く為だけにこの世界に存在するなんて、どこかはかないわね」
 ルナが感慨深そうに言う。
 「でも人間と比べても遜色無い最先端の人工生体も、この楽器を叩くだけの目覚まし時計も同じ機械なんだ」
 誠一はどちらも人間が入力した命令によって動いていると言いたかった。
 「それで他人の様な気がしないのね」
 ルナがまたそう呟いた。
 「えっ?」 
 誠一がその言葉に耳を疑う。
 「何でも無いわ」
 ルナは自分の発言を打ち消して言った。今のはルナが美佐同様に人工生体だったから出た言葉なのだろうか。それともそれ以上の何かがあるのだろうか。
 「機械にはプログラムを組んで模擬人格を持たせたりする事も出来るよ」
 誠一が自分の部屋にある機械部品一般の説明に戻る。
 「機械を作れてプログラムも書けるなんて、器用なのね」
 ルナが感心して見せた。
 「僕の部屋に居ると面白くて退屈しないでしょ」
 誠一が自慢げにそう言った。
 「フフッ」
 ルナも否定はしない様子だった。
 夜は更け、日付の変わる時間も近付いていた。
 「また機械を見に来てもいい?」
 玄関先で誠一にそう尋ねるルナ。
 「ああ。肩揉みもね」
 誠一は壁に肘をもたれさせてルナの問いに頷いている。
 「家まで送るよ」
 誠一はルナを気遣ってそう言ったが。
 「いえ、平気・・・」
 ルナは素っ気無くそう言って一人でドアを開けて出て行こうとする。
 「そう・・・じゃ・・・・・・」
 誠一は手をこまねいて去って行くルナをただ見送る。
 「あっあの!」
 誠一は思い出したかの様にルナに追いすがった。
 「何?誠一」 
 ルナが振り返る。
 「もしかして・・・久生さんじゃ無いですよね!?」
 誠一が気になっている事を尋ねた。
 「違うわ・・・ルナさんだぞ」
 ルナがセーターの位置を正しながら言った。
 「分かった」
 誠一は頷いて屋内にある廊下をエレベーターへ歩いて行くルナを見ていた。
夜明け前の交差点には自動車も走っていないし人も居ない。都心のオフィスの一角に聳え立つシグマソフトの自社ビルも東雲の中にその無機質な容貌を浮かび上がらせていた。 
 「おはようございます」
 シグマソフトの朝は早い。早朝にはエントランス前に警備員が立ち、一日が始まる。1Fロビーの休憩所には受付嬢よりも早く徹夜明けのプログラマーがやって来て、暫し眠り出す頃だ。
 「美佐おはよう」
 日が昇り俄かにざわつきが増した頃にエントランスで出社した美佐と紀子が鉢合わせする。紀子がまず挨拶する。
 「おはよう紀子」
 美佐も挨拶を返し、2人してオフィスへと向かって行った。

 ゴーッ
 その頃誠一は朝のラッシュのリニアに揺られていた。
 「ドア閉まりまーす」
 リニアは途中の駅を発車する。窓に映る風景はどんどんビルの林になっていく。
 (ルナってどこに住んでるんだろう?)
 誠一は昨夜のルナとのひと時を思い出しながら、スマホをタップしてルナと撮った2ショット写真を開いた。
 (今度会えるのいつかな?・・・)
 写真には三枚目の眼鏡姿の誠一には不釣合いな整った小顔の美人のルナの笑顔が横に写っている。傍目から見たら付き合っている様にしか見えない写真。
 (ルナの連絡待ちか・・・)
 誠一は今日にでもまた会いたい気持ちを抑えられなかった。超高速で走るリニアの窓の中には携帯に食い入る誠一の姿が見えていた。

 「おはようございます」
 誠一が美佐や紀子とは遅れてシグマソフトの1Fロビーに入ると、受付嬢が挨拶して来る。
 「あ、どうも」
 誠一は軽く会釈してそそくさとエレベーターに乗り込む。
 「あの人新人よね」
 受付嬢達がヒソヒソ話を始める。
 「どう思う?」
 ショートカットの受付嬢がポニーテールの受付嬢に訊く。
 「仕事出来そう」
 受付嬢達は身だしなみも声色も上品だが下世話な話をしている。
 「でも不潔そうじゃない?」
 受付嬢達は誠一の見たままの事を言う。
 「かもね」
 ロビーに別の社員が入って来て、受付嬢達は微笑み合いながら受付業務に戻った。
 ガーッ
 エレベーターが開発セクションのある階で止まり、誠一は言語変換ソフトのオフィスへと歩いて行った。そしてICカード認証のスライドドアを開ける。
 「あ、おはよう木田君」
 ドアが開くと入り口付近にいた紀子が振り向いて挨拶して来る。
 「おはようございます」
 誠一は挨拶を返して自分の席へ向かった。
 「ここの変数名はlanguageextra1でいいでしょうか?」
 近くでは真ん中分けの優男の野々村が美佐に尋ねている。
 「いいけど、もうちょっとオシャレにしてもいいんじゃない?」
 野々村に対しては普通の態度の美佐。
 (ル、ルナがスーツ着てる)
 誠一は通りすがりに美佐を見てそう思った。実際美佐とルナの顔のパーツは寸分の狂いも無く同じだった。なので誠一が美佐をルナだと考えるのも無理も無かった。
 「部長、おはようございます」
 誠一が挨拶すると、腰を突き出して屈んだ姿勢になったままの美佐が誠一の声に気付いて振り向く。
 「あ、おはよ」
 美佐は誠一を一瞥すると手許に視線を戻した。誠一は自分の席に座った後も美佐の腰つきを眺めていた。
 (フォーマルな姿のルナもいいなー)
 誠一には美佐とルナのどっちがより好きなのか、何しろ同じ顔をしているのでよく分からなくなって来ていたが、美佐への恋情を思い出してもいた。
誠一は昼食をとる為にオフィスを離れてエレベーターに乗っていた。
 (さて・・・ルナルナっと)
 誠一はまたスマホを取り出してルナとの2ショット写真に見入っていた。ルナと会えない間はこの写真で寂しさを埋めるつもりなのだろう。
 (ルナを見ているだけで癒されるなー)
 誠一は美佐と同じ顔をしたルナに、美佐には無いものを見出した様な気がした。
 ガーッ
 不意にエレベーターの落下感が止まり、扉が開く。
 「それでその女がよー」
 大声で話しながら誠一よりも一回り背の大きいスーツ姿のチャラ男風の男と逆毛の男がエレベーターに乗り込んで来る。誠一は慌ててルナとの写真を閉じてスマホをしまった。
 「アッハッハ」
 チャラ男の文句に逆毛男が笑って応じる。
 (この階に居るのは・・・営業部か)
 眼鏡で七三分け、ジーパンにトレーナー姿の誠一は別人種の様な感を抱いていた。
 「全く参るぜ、最近の女には」
 チャラ男は女性と遊んでいて火傷でもしたのだろうか、まだ文句を言っている。
 「だよなー」
 逆毛男は相槌を打っている。
 「ところで、久生美佐ってイイよねー」
 チャラ男はいきなり美佐の事を話し始めた。
 (部長の事だ・・・部長って有名なのかな?)
 誠一の耳が美佐の名前に反応する。否が応にも聞き耳を立てる誠一。
 「ああ・・・言語ソフト開発部長の。どこが?」
 逆毛男が真顔になってそう訊く。
 「顔とか腰のくびれとか」
 チャラ男は手振りで凹凸を再現してみせた。誠一も美佐の後ろ姿を思い浮かべる。
 「でも、気の強い女ひとみたいだぜ」
 逆毛男が見聞きした情報を話す。誠一は美佐の自信に満ちた表情を思い出して、その通りだと思った。
 「まあな」
 チャラ男は少しだけ我に帰ったような様子だった。誠一はそれを背後で聞いている。
 「でも、それってそれだけ泣かし甲斐があるって事ジャン?」
 チャラ男は大声でそんな事を言っている。
 (部長を泣かすって・・・オイオイ)
 シグマソフトの鉄の女みたいな美佐が泣く姿なんて到底考えられないと誠一は思った。
 「お前って・・・」
 逆毛男が話し出した所でエレベーターが1階に到着し扉が開く。ロビーは慌しく往来する人でごった返している。
 「本当に悪人だなー!」
 2人の男は笑顔で談笑しながらエレベーターを降りて行った。誠一も後からエレベーターを降りる。
 (あっ部長)
 見るとそこには噂をすれば何とやらで、ロビーで顧客と話しこんでいる美佐が居た。
 「そこはお手柔らかにお願いしますよー」
 美佐が顧客と笑顔で話している。普段のオフィスでの厳しい様子の美佐とは違った顔。
 (部長って頼もしいな・・・やっぱ部長なだけあるな)
 誠一は遠目に美佐の様子を観察している。
 「もうっ、意地悪なんだからー」
 さりげなく言葉の端に女性らしさも見せる美佐。
 (部長、こっち向いて)
 誠一がそう心の中で願うと、願いが通じたのか笑顔の美佐がチラッと誠一の方を向く。
 「・・・・・・・・・」
 誠一は黙って美佐に見とれていた。美佐はそれに気付いたのか気付いてないのか、また誠一から視線を戻す。
 (やっぱりルナと同じ顔だ。似てるなー)
 そう思いながら誠一はエントランスから外に出て食堂に向かった。
「あっこれ彼女との写真?」
 誠一がオフィスの自分の机の上で仕事の合間にこっそりスマホのルナとの写真を見ていると、それに気付いた野々村に話しかけられた。
 「あ、いや、これは・・・」
 誠一は慌てて言い繕おうとする。
 「えっ木田君彼女居たの!?」
 紀子も興味深げに話に割り入ってくる。
 「!」
 美佐も紀子の声でその事に気付いた。
 「ち、違うんです、ルナとはまだ一度会ったきりで・・・」
 誠一はそう言って美佐の方を見る。美佐は苦虫を噛み潰したような顔で肩を小刻みに震わせている。
 「彼女の名前ルナって言うんだー」
 紀子は意地悪というよりは興味本位で誠一にそう訊く。
 「あっやば」
 誠一は慌てて自分の口を押さえる。
 「見損なったよ誠一君」
 美佐に告白までする程好きだと言っていたのに、という枕詞を野々村は暗に言っていた。
 「彼女って言ってもまだキスもしてない関係なんですよ・・・」
 誠一はスマホを握ったまま何とか釈明しようとする。
 「そのうちするんだろ」
 野々村が鋭いツッコミを入れる。
 「ま、まあ、それは・・・」
 誠一は勝手に照れている。
 「木田君も隅に置けないわね」
 姉御肌の紀子がにこやかな笑顔を誠一に向ける。
 「俺も彼女欲しいなー」
 野々村が誠一を羨んでそう言う。
 「野々村、アンタも彼女欲しかったら木田君みたいに雑念を捨てなきゃダメよ」
 紀子が野々村にそうアドバイスした。
 「木田」
 不意に誠一を呼ぶ上から目線の声。美佐だ。
 「ぶ、部長、何ですか」
 誠一は恐る恐る返答する。
 「ちょっと来い」
 美佐に呼ばれて誠一は確信した。彼女がいるのに自分に告白したと勘違いした美佐の逆鱗に触れたと。
 「分かって下さい部長、ルナと会ったのは給湯室での出来事の直後で・・・」
 誠一は事の次第を説明するが。
 「木田君何で美佐にあんなオドオドしてるの?給湯室での出来事って何?」
 紀子が不思議そうに傍らの野々村に尋ねる。
 「先輩まだ分からないんですか?・・・」
 野々村が変な所で鈍感な紀子に半ば呆れて言う。
 バン!
 「コラッ木田っっ!!」
 机を勢いよく叩く音と美佐の怒声。
 「どうしてこんな初歩的なミスをするんだ!?あれほど言ったのに!!?」
 美佐の口から出たのは仕事上の指摘だった。うなだれる誠一。美佐の厳しい態度に紀子も思わず苦笑いしている。野々村も周りに背を向けて俯いている。もう一人のオールバックのプログラマーもじっと目を閉ざしている。
 「注意力散漫になってるぞ!!彼女がいるせいで仕事が手につかないのか!?」
 美佐にそう怒られて美佐を睨む誠一。
 「何だその態度は!」
 美佐の説教は更にヒートアップしていった。

 深夜の都心を誠一はリニアの駅へ向かって歩いていた。
 プルルルル
 誠一のスマホの着信が鳴った。
 「はい、木田です」
 スマホの向こうから声が聞こえてくる。
 「ルナ?ルナなんだね!?」
 誠一は声の主に名前を訊き返す。
 『誠一、今から会える・・・?』
 ルナの声がスマホを通して小さく聞こえて来る。
 「もちろんだよルナ、急いで部屋に戻るから、部屋で会おう」
 誠一は嬉しさで舞い上がるような気持ちになった。
 『ええ・・・』
 ルナはスマホの向こうで頷いたようだった。誠一はノートパソコンを担いだまま走り出した。
マンションの入り口に誠一が駆け付けると、既にルナが立っていた。
 「また会えて嬉しいよ、ルナ」
 誠一は息を切らしながらルナにそう言う。
 「こちらこそ、誠一君」
 ルナはニッコリと笑う。
 「今夜は外へ行こうか」
 誠一が提案する。
 「いいわよ」
 ルナもためらう事もなく同意した。
 誠一とルナは誠一の部屋から最寄の駅の近くにある映画館にやって来ていた。受付けでジュースを買い、席に着く。
 「突然だったけれど待ち時間も無く映画館に入れてよかった」
 会場が暗くなり、スクリーンに映像が映し出される。まず予告編が始まった。
 「どれも面白そうね、誠一」
 これから始まる映画が恋愛映画だからか、予告編も恋愛作品ばかり流れる。
 「そろそろ上映開始の時間だよ」
 予告編が終わると会場が静まり返り、肝心の映画が始まる。
 「今流行りの映画だって言ってたわね」
 映画は男女の体が入れ替わってしまうというものだった。
 ドーン
 終盤で発電所が爆発した。
 「2人はどうなっちゃうの、誠一・・・」
 映画の終盤で引き裂かれる2人を観ていて不安に駆られるルナ。
 「時空が歪んじゃってるよ、これ・・・」
 誠一は設定に納得がいかなかった様だが、映画はハッピーエンドで終わった。
 「最後は良かったわね、誠一」
 映画館から出た人達はどの人も映画の余韻に浸っているかの様だ。誠一とルナも美麗な映像が頭から離れない様だった。
 「作品では入れ替わりがポジティブに描かれていたけれど、実際知らない人が自分の体を勝手に使っていたりしたら怖いよね・・・」
 誠一はそう言いかけてハッとした。まさかルナは・・・
 「ゴホッゴホッ」
 突然咳込むルナ。
 「どうしたのルナ?まさか・・・」
 誠一が苦しそうなルナの大きいが華奢な体を支えながらルナに訊く。
 「何、誠一・・・」
 ルナが誠一の顔を見上げる。
 「風邪引いた?」
 確かに外は寒くて、ルナはワンピースにセーターを羽織っていただけだった。誠一はルナの体調を心配したのだった。
 「そうかもね・・・」
 ルナは誠一の介抱を解いて一人で歩き出した。
 「この後カラオケに行く予定だったんだけど、止めとく?」
 誠一はルナの広い背中を見ながら気遣う。
 「いえ、大丈夫よ。朝にならなければ」
 ルナは朝が来るのをひどく恐れているようだった。
 「じゃあ少しだけ歌おうか」
 誠一とルナは並んで歩き出した。

 2人は商店街の一角にあるカラオケボックスに入った。
 「飲み物は何になさいますか?」
 個室に入って来たカラオケの店員が訊いて来る。
 「ルナ何飲む?もちろん僕のおごりだよ」
 誠一は選曲しながらルナに訊いた。
 「嬉しーい!じゃあメロンソーダ」
 ルナは髪の毛を手ですくいながらお品書きを見ている。
 「じゃあ僕も」
 店員は注文を聞き終えると個室から出て行った。間もなくオフボーカルの曲が流れてくる。
 「Follow me to a land across the shining sea・・・」
 誠一は突然英語の歌詞を歌い始めた。
 「この曲知ってる~」
 ルナは相槌を打ってリズムに乗りながら誠一のコーラスを聴いている。
 「Follow me to a distant land this mountain high」
 サビに入って感情を込めて歌う誠一。
 「Follow me・・・」
 センチメンタルな曲調で曲が終わる。ルナは拍手していた。
 「一昔前のサイバーパンク映画の曲でした」
 誠一はルナにマイクを渡す。
 「やっぱり僕にはサイバーパンクの方が合ってる」
 2人はその後夜明けまで付き合っていた。

「何この計算は!」
 明くる日、オフィスに響く美佐の怒号。
 「すみません・・・」
 平謝りする誠一。オフィスに居る紀子以下の社員全員がその様子に注目する。
 「技術者意識が足りないのよ!」
 一方的に説教を続ける美佐。これがパワハラというものなのだろうか。
 「ちょっと見せて」
 紀子は美佐の手から書類を受け取る。
 「うっわ分かんね」
 書類には難解な図や数式が書かれている。誠一の数学力は既に上司達を凌駕していた。
 「こんなのも分からない様じゃ潰しが利かないわよ、紀子」
 美佐は誠一から目を離さずに紀子に言う。
 「私は美佐に付いて行くからいいのよ」
 紀子は書類を美佐に返した。
 「ところで木田、昨夜何してた?」
 美佐が腰に両手を当てて174cmの長身で誠一を見下ろしながら訊く。
 「・・・ルナとデートしてました」
 誠一は言いにくそうにそう口にする。
 「そんなんじゃないかと思ったのよ、だから仕事に身が入らないのね」
 美佐がそう断言する。誠一は美佐の口許を見た。昨日カラオケで歌っていたルナと同じ形の口唇。
 「部長も今度どうですか?」
 誠一が反対に美佐に尋ねる。
 「え?」
 美佐は聞こえているはずなのに訊き返す。
 「だから、僕とデート」
 誠一はフラれたというのに性懲りもなく美佐を口説く。
 「冗談じゃないわよ、アンタみたいな仕事出来ないの」
 美佐は踵を返して部長の席に戻って行ってしまった。誠一も落ち込んだ様子で自分の机に戻った。

 その日は珍しく日付の変わらないうちに仕事が終わり、誠一は紀子達に連れられて夜の繁華街を歩いていた。美佐だけは残業で居なかったが。
 「ここ入る?」
 紀子は進行方向に飛び込んで来た暖簾を指差して言う。
 「行きましょう」
 野々村が相槌を打つ。
 「いいよね、木田君」
 紀子が誠一に尋ねる。誠一が二つ返事で了解したので一行は通りの居酒屋に入って行った。
 「フゥ、やっと休めるよ」
 野々村は一番におしぼりで手を拭く。
 「店員さん、生4つ」
 紀子は自分の分と、野々村と誠一とオールバックの年輩のプログラマーの分の4杯のビールを頼んだ。
 「木田君飲もう、何もかも忘れてさ」
 紀子は誠一に気を遣っているのか、それとも自分に言い聞かせているのか分からないがそんな事を言う。
 「僕あまり飲めないので・・・」
 誠一が有名理系大学出身らしからぬ事を言う。
 「でもビールなら飲めるでしょ?ビールなんて水みたいなものよ」
 紀子は期待を裏切られた様子になったが気を取り直して言う。
 「生ビールです」
 店員が酒を運んで来た。
 「木田君さぁー」
 ビールを一気飲みした紀子が誠一に絡み出す。
 「何ですか?」
 誠一もグラスに口を付ける。
 「年上の女性に興味無い?」
 紀子が半目になって誠一に色目を使う。誠一は思わずビールを噴き出す。
 「・・・好きになったら年上でも年下でも構いませんけど」
 誠一はいつもの様に眼鏡を光らせて感情の読み取れない顔を向ける。
 「美佐に怒られて凹んでるの?」
 紀子が誠一の顔を覗き込んで言う。
 「・・・そりゃ少しは」
 誠一は昼間の事を思い出した様だった。
 「あんな難しい計算、普通は分からないわよ」
 酔いが回ってきた紀子は誠一の肩に自分の肩をくっつける。
 「でも僕にもプライドがありますので」
 誠一は学生時代に培った自信が崩されるのを内心感じていた。
 「そうなのね・・・まあ失敗だってあるでしょー、元気出しなよ新人君!」
 紀子は誠一の肩に手を回してそう勇気付ける。
 「・・・・・・」
 誠一は無言でそれに応じる。
 「頑張れよ!」
 紀子は席を立って憂さ晴らしなのか傍で飲んでいる野々村に絡んで行き、176cmの長身で更に両手を振り上げて野々村を威嚇している。野々村はすっかり怯えた様子でそれを見上げている。オールバックのプログラマーは逃げる様にトイレに向かう。
 「・・・それだけじゃないんだよ、僕が落ち込んでいるのは」
 誠一は大口を開けて怒鳴り文句をまくし立てる美佐を脳裡に浮かべながら独り言でそう呟いた。
しばらくして誠一達は居酒屋を出た。外は真夜中だというのに酔っ払ったサラリーマンや夜遊びしている若者で溢れ返っている。
 「もう飲めません、先輩」
 野々村は足元がおぼつかなくなっている。
 「何言ってんの、ハシゴよハシゴ!」
 紀子は野々村の肩に手を回して強引に連れて行こうとする。
 「まだ夜はこれから!」
 野々村にとって今の紀子は酒臭いし重い。
 「帰ろう、木田君」
 野々村は紀子の腕を振りほどいて誠一の許へ歩み寄った。
 「でも・・・ヒック、斉木さんを介抱しないと・・・」
 誠一も酔いつぶれた様子だが紀子を心配する。
 「いいんだよ、紀子さんは大丈夫だから」
 野々村はそう言って紀子を見る。紀子は今度はオールバックのプログラマーに話しかけている。
 「行こう」
 野々村は誠一の背中を押して繁華街の出口に向かう。誠一が背後を振り向くと、紀子とオールバックのプログラマーが繁華街のネオンの中に消えて行くのが見えた。
 「先輩に付き合ってるとこっちの体がもたないんだよ」
 自動車のヘッドライトが血流の様に流れる深夜の市街地を連れ歩く誠一と野々村。
 「野々村先輩はどうしてシグマソフトに入ったんですか?」
 誠一が何か話をしようと思って野々村に尋ねる。
 「俺は趣味でプログラムを組んでて、それが高じてって所かな」
 野々村は過去の自分を懐かしそうに話している。
 「木田君はどうして?」
 今度は野々村が同じ質問をする。
 「僕は父親が技術者で、その背中を見て育ったので」
 誠一はそう言いながら実家の父親の最後に見た姿を思い出した。
 「じゃあ技術者の家系なんだ」
 野々村が感心した様に言う。
 「何でも理詰めで考える所が似たんでしょうね」
 誠一は父親の言葉を思い出しながら言う。
 「そうなんだよ!プログラミングには物事を順序立てて考える力が必要なんだよ」
 野々村が嬉しそうに言う。
 「そうなんですか?」
 誠一が訝しむ。
 「そうだよ、プログラムは書いた通りに動くからね」
 誠一もその点には納得した。
 「ところで、彼女とは上手くいってるの?名前・・・何だっけ」
 野々村が話を変える。
 「ルナです」
 誠一がルナの名を教える。
 「仕事が忙しくて中々会えないでしょ」
 誠一を気遣う野々村。
 「その話なんですけど・・・実はルナは部長にそっくりなんですよ」
 誠一はいつも美佐を見る度にルナとダブり、ルナを見る度に美佐とダブっていた。
 「久生部長?」
 当然野々村にとってはルナが美佐に似ている事は初耳なので、訊き返して来る。
 「部長が昨夜何していたかご存知無いですか?」
 誠一は半分興味津々で、半分怖れからその質問をする。
 「部長なら昨夜は電脳会議に出ていたはずだけど・・・」
 前を歩く誠一よりも一回り背の高い野々村がそう思い出して言う。
 「電脳・・・会議?」
 誠一にとっては初めて聞く言葉の様だ。
 「電脳からネットワークに接続し通信を行う―高コストで一般には流通していないが、通信の間身体からは完全に独立する」
 要は脳から直接通信の出来る、テレパシーの様なものだ。
 「電脳化していたおかげで人工生体化もスムーズに出来たみたい。」
 確かに美佐の手術時に開頭した医師達が美佐の電脳を見ていた。
 「えっ」
 誠一は今世紀最大の驚きを感じた様だった。
 「あっ聞いてなかった・・・?彼女、交通事故に遭って・・・」
 美佐は信号を無視して交差点に進入した自動車に撥ねられ、瀕死の重傷を負った。
 (人工生体・・・)
 誠一は美佐の姿を思い浮かべた。あの腰つきも口許も全部作られたものだったのか。
 「木田君知らずに口説いてたの?」
 教えてくれなかったくせに偉そうに野々村が言う。
 (どうりで・・・外見上全く変わらない人間がいるわけだ)
 美佐とルナの姿が寸分の狂いも無く同じ事も、同型の人工生体を使っていると考えれば納得がいく。
 (・・・という事はルナも人工生体なんだ?)
 誠一は機械が好きなのでルナのあの笑顔が作られたものだとしてもむしろ歓迎出来る。
 (という事は、人工生体流行ってるのかな?)
 誠一はルナが何故人工生体なのかという理由までは思い当たらなかった。
誠一がシグマソフトに入社してから時間が経った。いつもの様に出社してロビーに姿を見せる美佐。だが鉢合わせた紀子は変化に気付いた。
 「ン、美佐、髪・・・」
 紀子は美佐の人工のストレートのロングヘアーを見た。
 「染めた」
 美佐はそう言った。美佐のそれまで金髪だった髪は黒色に変わっていた。
 「何だか・・・昔の美佐が戻って来たみたい。懐かしい」
 紀子は感慨深そうにそう言った。
 「失った生身の身体は二度と戻って来ないけどね」
 美佐は皮肉っぽくそう言った。
 「でも人工生体でも美佐と話していられるだけで嬉しい」
 紀子は美佐の手を取った。
 「美佐が人工生体になって失った物は大きかったけれど、私達の仲は一層深まったと思うのよ」
 美佐と紀子はロビーで人目も憚らず思い出話に耽っている。
 「そうね・・・」
 美佐は伏目がちに半目になって照れている。
 「覚えてる?病院から抜け出して、人工生体になって初めて外に出た時の事を」
 紀子が美佐に尋ねる。それは紀子が美佐の面会に行き、美佐の願いで看護婦の制止を振り切って美佐を病院から連れ出した時の事だった。
 「私がまだ平社員だった頃の話ね」
 美佐が遠い昔の事の様に言う。美佐はその後がむしゃらに仕事を頑張って、25歳にして開発部長になったのだった。
 「あの時の美佐ったら、海中に棲む生物が初めて陸に上がった時の様に不安そうだったんだから」
 紀子は今になってこの話題をやっと笑って話せたのだった。
 「新たな人生を始める貴重な第一歩だったって事ね」
 美佐は当時の心境をありありと思い出した様だった。
 「あの時無理矢理外に出ていなかったら、今もまだ病院のベッドの上だったかもしれないからね」
 美佐は付け加えてそう言った。
 「よく言われている様に、人工生体が使い方によっては人間以上の性能が引き出せるというのは本当なのね」
 紀子は感心した様に言った。
 「部長が人工生体だというのは本当だったんですか」
 背後から声がして美佐と紀子が振り向くと、誠一が居た。美佐の事が気になって話を聞いていた様だった。
 「木田君!どこで聞いたの、美佐が人工生体だって事・・・」
 紀子が慌てた様子で尋ねる。
 「野々村先輩に聞きました」
 誠一が答える。
 「野々村の奴、口外するなって言ったのに・・・」
 紀子が歯をむいて苛立っている。
 「どうしてですか?」
 誠一が暗に人工生体だという事を知られても何のデメリットも無いはずと態度に込める。
 「美佐が人工生体なのは公然の秘密みたいなものなのよ」
 紀子が美佐に聞こえているのも構わずに誠一に打ち明ける。
 「そうよ木田、私の事が嫌いになった?」
 美佐はいつも誠一に接する時の高慢な顔つきに戻ってそう訊く。
 「えっ、木田君て美佐の事が好きだったの!?」
 忙しく慌てた後に今度は驚いている紀子。
 「そうです、僕が告白して部長にフラれたんです」
 誠一の話を聞いて紀子は言葉を失っている。
 「部長、髪染めたんですね」
 誠一がそう切り出すと、美佐は髪をかき上げてサラサラとなびかせた。
 「そうよ、変かしら?」
 美佐から誠一に意見を求めるなんて珍しい。
 「いいえ、黒髪の方が素敵です」
 誠一は紀子と同じ感想を言うと、口許をニヤつかせてじーっと美佐の頭部を眺めている。
 「あっそ」
 美佐は誠一の返事を当然、といった様子で聞き入れると、オフィスへと続くエレベーターに先に向かった。

 深夜、郊外にあるマンションの入り口に立つ人影があった。しなやかな細い指が呼び出しボタンに伸びる。
 ピロリロ
 誠一の部屋のチャイムが鳴った。
 「はい」
 誠一は本を読む手を止めてインターホンに向かう。カメラにはロングヘアーでワンピース姿の女性が映っていた。
 「そのワンピース姿は・・・ルナ?」
 誠一はルナだと気付くとすぐにオートロックのドアを開けた。
 「入って」
 ドアが開くと、ルナらしき人影はマンションへと入って行った。
 「ルナ、僕の部屋の場所覚えてるかな?・・・」
 誠一はルナが部屋を間違えないで来れるか不安になっていたが。
 ピンポーン
 ルナはエレベーターに乗り、少し経って誠一の部屋のチャイムが鳴った。
 ガチャリ
 誠一は玄関へと向かった。玄関の鍵を内側から開ける音。
 「誠一さん」
 早く扉を開けてと誠一を急かさんばかりのルナの声。
 「はいはい待ってて、今開けるから」
 誠一がそう言ったかどうかといううちに、玄関の扉が音を立てて開いた。視線が合う誠一とルナ。
 「誠一さん・・・来ちゃった」
 ルナは手を前に揃えて照れくさそうに微笑んでいる。
 「こんばんは、ルナ」
 久しぶりに見るルナの姿。やはり美佐と同じだ。
 「あれっ、髪の毛が」
 誠一はルナの変化に気付く。ルナの髪は黒髪になっていた。
 「うん・・・変えてみたの」
 誠一に指摘されるとルナは肩までかかる髪を撫ぜながらそう説明した。
 「変えてみたって・・・美容室で染めたの?」
 誠一はルナの突然の変化に面食らっていた。
 「ええ、そうよ」
 ルナは頷くとパンプスを脱いでそそくさと玄関から居間へと勝手に入って行った。その背中を目で追う誠一。
 (部長も髪染めてたな・・・偶然か)
 誠一は美佐とルナの2人ともがいきなり髪色が変わったので、落ち着かない気分を抱いていた。
 「ルナ何か食べる?お腹空いてない?」
 後から自分の部屋の居間に入った誠一がルナに尋ねる。
 「誠一料理作れるの?」
 ルナが驚きを込めた表情で誠一を見る。
 「そんなビーフストロガノフとか手の込んだものは作れないけど」
 誠一は冷蔵庫にある食材と相談だ、といった様子で台所を見る。
 「じゃあ何か作ってみて」
 ルナは少し意地悪そうに微笑んで見せた。
 「じゃあちょっと待っててね」
 誠一はエプロンを身に着ける。
 「エプロンまで用意して、本格的ね」
 ルナが面白そうに笑っている。
 「男だってエプロンするんだよ」
 誠一はそう言いながら背中の紐を強く結んだ。
 「待ってる間誠一の本読んでるわね」
 ルナはそう言うと難解な理系の参考書を読み始めた。その30分後・・・
 「出来たよルナ!」
 誠一は料理をお皿に盛り付けて居間に運んだ。しかし。
 「やっぱり要らない」
 ルナは食事を食べないと言い出した。
 「えー、せっかく作ったのに」
 誠一はルナの為に作った食事を手にして、徒労感を感じていた。
 「誠一が作った料理が見たかっただけなの」
 ルナはそう言って誠一の手料理をまじまじと見つめている。
 (そうか・・・ルナも人工生体だから、食べ物は食べられないのか)
 誠一はルナが無理して自分に合わせていてくれた事に気付いた。
 「ごめん・・・ルナ」
 料理をローテーブルに置いてルナの向かいに座る誠一。
 「どうして謝るの?」
 ルナが不思議そうに誠一の顔を覗き込んでいる。
 「いや・・・この料理どうしようかなって」
 誠一はルナに直接人工生体なのか?とは訊けなかったのではぐらかした。
 「誠一が食べる?」
 ルナはそう提案した。
 「そうしよう」
 誠一はそう言うと手を合わせた後、料理を作ってちょうどお腹が空いていたので一心不乱に自分の手料理を食べ始めた。
 「うん、美味しいよこれ」
 誠一は思わずそう言った。
 「そう?良かったー」
 ルナが自分の事の様に喜んでいる。
 「何でルナがそう言うんだよ・・・」
 ルナのボケにツッコむ誠一だった。
ルナに作ったはずの手料理を誠一が自分で食べ終わった後、2人は部屋で語らっていた。
 「ルナとこうして仲良くしている所が久生部長に見つかったら大変だね。僕は部長に告白したばかりだから」
 誠一があぐらをかいている横で、ルナがお姉さん座りをして誠一の言葉に聞き入っている。
 「でもルナは部長にそっくりなんだ。まるで鏡で映したかの様にね。初めてリニアの中でルナを見つけて後を追ったのも、ルナが久生部長に似ていたからだったんだ」
 ルナはその言葉を聞いて指で口唇を隠し驚いた様子を見せる。
 「でも性格はまるで正反対。ルナと居ると癒されるよ」
 誠一はどこか諦めともとれる様な表情を含んだ笑みでルナの方に向き直った。
 「そうなんだ・・・私でよければいつでも話を聞いてあげる。」
 ルナが目を細めて微笑む。薄いルージュの口許が半月形にカーブしてえくぼが出来る。
 「僕はルナのその笑顔を見ているだけで十分だよ」
 誠一の眼鏡の奥の目つきは割と真剣だ。
 「誠一ったら・・・このっw」
 ルナは照れくさそうに掌をグーにして猫パンチの様に優しく誠一の頭を叩くポーズを取る。スッと頭を差し出す誠一。
 「僕は久生部長の事がちょっと心配なんだ・・・」
 急に誠一が話を変える。
 「どうして?」
 ルナは興味津々な様子で誠一の顔を覗き込む。
 「いや、あんなに怒ってばかりだからさ、いつか血管が切れるんじゃないかって」
 誠一はあぐらのまま上体を前後に動かしながら思索に耽った様子で話す。
 「そうね・・・」
 ルナも顎に手を当てて顔を宙に傾けて考え込む。
 「まあ部長は人工生体だから血管切れても死ぬ心配は無いけど」
 誠一の動きが止まり、そう言い放つ。
 「あっ誠一~、だましたわね」
 ルナは思わず誠一の肩に手を置いて怒った様子を見せた後、微笑んだ。ルナの手の感触は不思議と温かい。

 その後誠一とルナは誠一の部屋にある機械人形を眺めていた。誠一が最近作ったピアノを叩く機械だ。
 「指の挙動をプログラミングするのが大変だったんだよ・・・」
 誠一はルナに機械の動きを説明する。
 「へえー・・・よく出来てるわね」
 機械の動きをよく見る為に、自然と寄り添う恰好になる誠一とルナ。その時誠一は思った。
 (ルナのこの体も、久生部長と同じ人工生体で出来ているんだ・・・だから見た目が同じなんだもんな)
 その時不意に至近距離で誠一とルナの目が合った。
 (ルナ・・・!)
 誠一は真っ赤になって思いつめた表情になったが、ルナはきょとんとしている。
 「ご、ごめんっ」
 誠一は勝手に謝ってルナから離れた。
 「コホン」
 ルナは軽く咳をしてまた機械の方に見入った。
 (まだ早いよな・・・そういうの)
 誠一は情けなさそうに俯く。
 (・・・・・・・・・)
 ルナは誠一の様子を見逃さず、しっかりと横目に見つけて期待とも侮蔑とも取れないような表情を浮かべていた。
ある秋も深まった休日、誠一はエンジニアらしい飾り気の無い私服で地元の駅の待ち合わせ場所でお出かけ用の時計と睨めっこしていた。
 「誠一~、お待たせー」
 色違いだがいつもと同じワンピースの上に薄手のセーターという出で立ちでヒールを鳴らしながら駆けて来るルナ。
 「やあルナ」
 誠一は手を上げてルナに自分の居場所を知らせる。
 「誠一、待った?」
 待ち合わせの時間は15分過ぎていた。
 「いや、今来たばかりだよ」
 誠一はそういうとルナと並んで改札に向かった。

 高速運行するリニアの車窓からは、地平線まで続くかという程の超高層ビル群が並んでいる。
 「あ、休日なのにスーツ着た人が居る」
 ルナは向かいに座る白いトレンチコートを着たスーツ姿のOLを指差した。
 「本当だ。プログラマーの僕よりも忙しい人も居るもんだな」
 すっかりリラックスした誠一。
 「誠一の会社の部長さんも忙しいって言ってたわね」
 美佐と瓜二つの顔で隣に座る誠一の方を向いて話すルナ。
 「ああ。部長今頃何やってるんだろう。毎日残業してるから今頃自宅で寝てるのかな」
 誠一は美佐の寝姿を想像してみた。誠一の想像は美佐が寝言で説教をしているというものだった。

 リニアは中心部を抜け、郊外の住宅街までやって来た。誠一とルナは目的地へと降り立った。
 「ここは自然保護区域なんだ」
 目の前にあるのは森に覆われた草原だった。誠一はルナにそう説明する。
 「高級なブランド店もいいけど、こういう所もいいかなと思って」
 誠一は舗装されていない土の上を慎重に歩く。
 「気に入った?ルナ」
 誠一はルナの様子を伺う。ルナはうっそうと茂る木々を見ていた。
 「ちょっと寒いけど、こういうのもいいと思う」
 ルナは草原の中を駆けていく。それを目で追う誠一。
 「僕はここで休んでるから、ルナは森の中を探索して来なよ」
 誠一は木陰に座って空を眺め始めた。

 しばらくして遊び疲れたルナが仰向けで休んでいる誠一の隣に座った。
 「今日はありがとう、誠一」
 ルナは満足そうな声色でそう話す。
 「いやいや、僕の方もいい気分転換になったよ」
 誠一は起き上がって時計を確認した。
 「ねえ誠一」
 ルナは人差し指で誠一の鼻を押さえる。
 「な、なに、ルナ」
 誠一は長い話になるのかと少し焦る。
 「あなたにとって私はどんな存在?」
 ルナの言葉はその一言だった。
 「どうしたの急に」
 誠一は半分呆気に取られている。
 「ずっと聞いてみたかった事なのよ」
 ルナはいつもの少し抜けた様子が無く、真剣そのものになっている。
 「そうだな・・・」
 誠一は無意識に両腕を頭の後ろに回して考える様子を見せる。
 「多分君無しでは僕は生きていけないと思う」
 それが誠一の答えだった。
 「ありがとう」
 ルナは安心したように誠一と手を繋いで帰途に就いた。
その日も誠一はいつもの様に出社して会社でプログラムと格闘していた。その昼休み。
 「今度3駅隣の駅前にオシャレなカフェが出来たのよー。紀子も行ってみない?」
 美佐と紀子は同じ様なレディーススーツを着て、シグマソフトの自社ビルのカフェ・ラウンジでガールズトークに花を咲かせている。
 「いいわねー、飲み物なら人工生体のあなたでも飲めるし、一緒に行けるわね」
 紀子はタイトなミニスカートから伸びる長くて白い美しい脚を組み直しながら、隣に座る美佐に微笑みかける。
 「それが紀子、私はアルコールだって飲めるのよ。しかも一瞬でシラフに戻れるのよ」
 美佐はスーツの袖を少しまくって、手首にうっすらと光るコンソールパネルを見せびらかす様に示した。
 「へえー、それじゃ私みたいに飲み過ぎて二日酔いで頭が痛くなる事も無いのね。便利」
 そう言いながら紀子は彼女なりの嫉妬した時の意思表示の為のスキンシップなのか、美佐のお尻を一瞬さわっと触る。美佐は笑って受け流す。
 「そうなのよ。最近この肢体にも慣れてきて、やっと事故の苦痛も薄らいで来た感じ」
 交通事故の後で美佐はがむしゃらに努力して開発部長にまでなった。その事が美佐が自分が人工生体である事の一種の自信にもなっていた。
 「部長」
 ふと声がして視線を向けると、通りすがりの美佐や紀子の部下のいつもの野々村だった。紀子からは一種のかわいがりを受けているあの。
 「あっ」
 美佐と紀子は談笑の途中だったが、いつも同じセクションで顔を合わせる仲間に対してカフェ・ラウンジでも会釈して、一種の仲間意識を確認した。
 「それでね、眠る時も一瞬で眠れるから不眠とか無いのよ」
 美佐はは紀子に向って更に話を続ける。その美佐の背後に忍び寄る影。
 「こんにちはー、久生部長」
 いつもは長身の美佐や紀子に見下ろされる誠一だったが、その時は円形のテーブルに座る美佐や紀子のつむじが見えるという貴重な体験をしていた。
 キッ
 野々村の時とは一変して、声の持ち主を直感して睨み付ける表情で振り向く美佐。
 「気安く話しかけないでよ恥ずかしいから!」
 美佐の言う恥ずかしいとは嬉し恥ずかしという意味では無く、誠一の様な七三分けのいかにも理系オタクのメガネチビに気を許していると周りに思われたくないという意味だろう。
 「そうですか?部長、僕は女性の心理に疎いのでそう思うとは考えられないですけど」
 誠一はそんな小さい事を気にする美佐をたしなめる様に、いつにもなく強気でそう返したのだが。
 「そうなのよねー、アンタは仕事の事も考えられないよね?」
 美佐にとって誠一は入社直後の唐突な告白の余韻がまだ冷めていないのか、まだかわいい部下という所まではなっていない様だ。
 「・・・・・・・・・」
 誠一は無言で踵を返して美佐から離れる。
 「木田ァ、そういう事は鏡見てから言ってねー?」
 そこにオーバーキルともとれる美佐の心無い捨て台詞。これにはくよくよしない性格の誠一もさすがに落ち込みがキツかった。
 (部長・・・僕は部長の事がこんなに好きなのに・・・)
 誠一は家に帰るまでずっと落ち込んだままだった。

 誠一は部屋でも俯いて黙っていた。
 「職場で何か辛い事があったのね・・・私が慰めてあげる。」
 気付くと目の前に微笑むルナが居た。誠一は一人じゃない。
 「ルナ・・・」
 その時誠一にはルナが天使か女神か仏か何でもいいが、救いをもたらす存在の様に見えた。
 「・・・・・・・・・」
 ずっと暗かった誠一の表情がルナの前では申し訳ないと思ったのか、努めて誠一は表情を綻ばせた。
今日は花金だ。街は時を忘れて騒ぐ人々でごった返していた。
 「シャンパン1ダース持って来いやー!!」
 シグマソフトの言語変換チームの開発部長である久生美佐も、眠らない街に繰り出していた。
 「人工生体になっても酒の味は分かって嬉しい。」
 美佐はバーや居酒屋を何軒もハシゴした後、酔いつぶれて海岸沿いを歩いていた。
 「飲み過ぎたー・・・」
 そこに男が現れる。
 「お嬢さん、ちょっといいかな」
 酔いつぶれたOLに話しかけるなんて新手のナンパかしらと思いながら、美佐はフラフラと立ち止まる。
 「お嬢さんって・・・私は身長174cmあるし、25歳だし、開発部長だし、大学だって出てるのよ・・・ヒック」
 美佐は不審者に対してからみ酒を発揮するが。
 「これから僕といい所に遊びに行きましょうよ」
 やっぱりナンパだったか、と美佐が顔を上げると、そこには見た事のある男が居た。
 「あっ、お前営業の安田じゃん」
 そこには何かを思いつめた表情をした、パッと見イケメンでもてそうな営業の安田が笑顔を引きつらせて美佐を睨んでいた。
 「名前を覚えてもらえたなんて光栄です、久生さん」
 美佐はこんな波止場で会う事も無いのに、と思った。
 「何の用よ、もしかして襲う気ぃ?」
 美佐はフラフラしながら酔拳の使い手の様に両手を構えて戦闘態勢を取った。
 「そうです」
 男はコートを脱ぐ。
 「アンタも執念深いわね・・・私にフラれたのを根に持ってるのね」
 そう言って美佐は吐き気をこらえる。
 「僕は人生で初めてフラれたんですよ」
 そう言って男は美佐に襲い掛かった。が、美佐にハイキックで呆気なく倒された。
 バキッ!
 「痛てて・・・そんなに酔ってるのに、何故・・・」
 美佐はミニスカートからシルク地のパンツを覗かせ、美しい御身脚を高く上げながら言った。
 「人工生体なめるんじゃないわよ」
 美佐は後ずさる男にとどめをさそうとした。その時。
 "暴力はやめて!"
 体の中から誰かの声がしたかと思うと、突然美佐の体は動かなくなった。
 「えっ・・・身体が動かない、なんで・・・」
 美佐は内股になってその場にへたり込む。その様子を見て男は蹴りのダメージで体を重たそうにしながらも立ち上がった。
 「何だか知らないが、チャンスだ・・・」
 男は美佐に近付くと、ブラウスのボタンに手をかけ、ゆっくりと外そうとする・・・
 「やめて・・・!」
 美佐から諦めとも取れるような悲鳴が出た。その時。
 「やめるんだ、そこの野郎!」
 突然美佐を襲う男を制止する声が響いた。男が振り向く。
 「誰だ!」
 そこには大きなショルダーバッグを抱えた誠一が立っていた。
 「通りすがりのプログラマーでそこの女性の部下だ!」
 男はその言葉に誠一が同じ会社の人間だと気付く。
 「邪魔するんじゃねえ!」
 男は誠一に向って殴り掛かった。
 ボコッ!
 男の拳は誠一の横っ面にクリーンヒットした。しかし誠一は平気そうに立っている。
 「何ィ、効かないだと!?」
 男は誠一の腹に何発もパンチを打つが、誠一はビクともしない。
 「君みたいなホスト風のガリガリの体形から出るパンチなんて、軽くてちっとも痛くないな」
 誠一は困惑する男の拳を手で押さえる。
 「何だと、ガリ勉メガネが偉そうに」
 男は悔しそうに悪あがきで喋る。
 「そのガリ勉メガネは君の知らない事をたくさん知っているんだ。君は力積とか知らないだろ」
 誠一は男から一瞬離れて助走をつけた。
 「昇竜拳!」
 誠一は一回り背の高い営業の男にアッパーを食らわせてノックアウトした。
 「大丈夫ですか、久生部長」
 誠一はしゃがみこむ美佐の下に駆け寄る。
 「アンタ木田なの?なんでそんな力があるのよ・・・」
 美佐は訝しそうにそう問いかける。
 「こんな事もあろうかと思って、スポーツジムで体を鍛えてたんですよ」
 誠一がワイシャツの腹の所をはだけると、そこにはシックスバックになった腹筋があった。
 「アンタ私が終電無くなるまで残業してる時にそんな事してたの!?」
 美佐は誠一に感謝するどころか小言を言い始める。
 「こんな所で説教してたら風邪引きますよ部長。さ、一緒に帰りましょう。この営業の男はほっといて」
 誠一は美佐の体を支えながら立ち上がらせて、介抱しながらその場を去った。
 「突然だけど、木田君、あなたを週末のソフトウェア業界のイベントのプレゼンターに抜擢するわよ」
 開発部のミーティングで、部長の美佐がそうきり出す。
 「そうなんだ。頑張ってな誠一君」
 誠一の先輩の野々村が他人事の様に誠一を励ます。
 「何か美佐って最近誠一君に優しくない?何か心変わりしたのかしら」
 美佐の同僚の紀子がそうちょっと寂しそうに漏らす。
 「いいよね、木田君」
 美佐は誠一の意思を確かめる様にそう尋ねる。
 「ありがたき幸せですよ、部長」
 誠一は時代劇に出て来る将軍の家臣の様にそう答えた。

 (そうは言ったものの、僕ってプログラミングや計算は得意だけど、レポートの作成は苦手なんだよなあ・・・)
 誠一は大学時代の総合演習の発表で苦心した事を思い出していた。
 「どうしたの誠一?何か考え事してて私の事はうわの空みたい」
 仕事帰りの深夜になると誠一の所を訪ねて来るルナが、正座してローテーブルをはさんで向き合う誠一に話しかけた。
 「ごめんルナ、今夜は寝ずに仕事する事になりそう」
 誠一はそう言うとローテーブルの上にノートパソコンを広げ始める。
 「そう・・・分かった。頑張ってね」
 ルナはそう言うと立ち上がって玄関へと去って行った。
 「パワーポイントの使い方から思い出さないと・・・」
 誠一はモニタに向って格闘を始めた。

 そして発表会当日。
 「―我が社の開発チームが手がけている自動言語翻訳ソフトは音声入力によるソフトウェア上での自動翻訳が可能です。人間に同時に操れる言語はせいぜい9ヶ国語程ですが、SIGMA LANGUAGEは20ヶ国語以上の言語の翻訳に対応しています。空港のロビーからコンビニエンスストアまで、あらゆる機会に利用されております」
 誠一は文字や画像によるソフトの一通りの説明を終えた。会場からは拍手が起こった。
 「それでは質疑応答に入りたいと思います」
 議場に立つ誠一を尻目に、隅の方の席でパソコンに向かっている美佐がそう発言する。
 「―では前方の中央で挙手されたあなた、質問をどうぞ」
 美佐がマイク片手にそう続ける。
 「ありがとうございます。東洋開発の松坂です。誠一さんに質問なんですが」
 誠一は入社したてでプレゼンも質疑応答も初めてなので、緊張の面持ちで質問者に耳を傾ける。
 「言語翻訳ソフトが人間を上回る性能を持っていて大変便利だという事は分かったのですが、そうなると人間が外国語を習得する必要が無くなるという事であって、それは人類にとってはむしろ後退する事にはなりかねませんか?」
 質問者が発言を止めたタイミングで、誠一はマイクに向かうが。
 「えーと、それはですね・・・」
 誠一は咄嗟の事で言葉に詰まる。
 「ちょっと誠一君、ピンチじゃない?」
 会場の座席で座りながら誠一と美佐を見守る紀子が、小声で思わずそう呟く。
 「それは私がお答えします」
 美佐が立ち上がって代わりに答え始める。
 「将棋や囲碁が人工知能に敵わなくなっても棋士が居なくならない様に、またリニアモーターカーが時速500km/h以上で走るようになっても短距離選手が記録に挑戦し続ける様に、当社の言語翻訳ソフトが普及した後も、人間が外国語の学習をするのは一種の競技として、今後も続けられる事でしょう」
 美佐は続ける。
 「機械に頼る事無く自ら学習する事による制約によって得られる物もあるのです。また、コンピュータに出来ない事に挑戦してみるのもいいでしょう。音楽や文学や絵画で人を感動させる事は機械には出来ません。私も脳は残っていますが人工生体になって、生身の良さに改めて気付かされる事もあります」

 プレゼンを終えた誠一と美佐は、超高層ビルの120階の高級レストランでフルコースを堪能していた。
 「今日はありがとうございます、部長。すごく助けられたし貴重な経験をさせていただきました」
 新人の誠一はすっかり興奮が収まらない様子でそう嬉しそうに言う。
 「私だってあなたと3歳しか違わないんだから、いろいろ勉強する事は多かったわ」
 美佐はワイングラスをくゆらしながらうっとりした表情で微笑む。
 「こんな夜もいいわね」
 それは誠一と過ごす夜を満喫しているという意味だった。
 「でも明日も仕事ですから、このくらいにしておきましょうか」
 誠一が眠らない街の風景を一望しながら、頃合いを見計らって席を立つ。
 「そうね」
 美佐も席を立った。

 「お会計は2名様で4万円になります」
 ボーイの言葉に美佐は絶句した。
 「木田君、ここは割り勘ね・・・」
 美佐は財布と睨めっこした後にそう言った。
 「部長、最後の最後で減点ですよ・・・」
 トップエンジニアと言っても20代なんてそんなもんだ、と2人を見るレジのボーイは内心そう思った。
仕事終わりに美佐はかかりつけの病院に向かっていた。
 「こんばんわ、久生さん。今日はどうかなされましたか?」
 美佐の人工生体化の後に、リハビリを担当していた看護婦が受付に立つ美佐に話しかける。
 「ちょっと医者に話したい事があるの」
 美佐がそう言うと、至急美佐の人工生体化の執刀医が呼び出される。

 「実は先日港で暴漢に襲われそうになった時に、気になった事があって・・・」
 美佐は医者に、体の中から知らない声が聞こえて突然体が動かなくなった事を伝えた。
 「そんな事があったんですか」
 医者は考え込む様子をしている。
 「私の中に誰かがいる気がするのよ」
 美佐は確かになりつつある疑念を口にした。
 「人工生体の制御AIに何か異常がある可能性がありますね・・・」
 医者は心当たりがある様だ。
 「それってどういう事?」
 美佐は思わず身を乗り出して訊く。
 「あなたの人工生体の生命維持活動を司る人工知能には、非常に高度な設計がなされていて、ほとんど人間の脳に近い性能があるのです」
 医者はそう説明する。
 「つまり、人工生体が勝手に体を使う可能性がある、という事ね?」
 美佐は核心を突く。
 「制御AIには学習機能が備わっているので、想定外の動きをする事があり得ます」
 医者はそう言って設計図らしい書類に目を通す。
 「どうにかしてよ」
 美佐はそう訴える。
 「分かりました。念の為制御AIのメモリを初期化しましょう。1週間後にでも出来ます」

 美佐が医者に行った3日後、残業を終えた誠一のスマートフォンの着信音が鳴った。
 「もしもし?・・・ルナなの?」
 誠一は受話器の向こうのどこか重苦しい雰囲気を察してそう尋ねた。
 「誠一さん、今から会えますか?・・・何時まででも待ってます」
 そう絞り出す様にルナの声がする。
 「どうしたの?会いたいならいつもの様にこれから僕のマンションに来てよ」
 誠一がそう言うと電話は途切れた。

 ピンポーン
 誠一が部屋で技術書を読みながら待っていると、インターホンが鳴ってルナが現れた。
 「誠一・・・さん」
 思いつめた様子のルナを誠一は部屋に通す。
 「どうしたの?ルナ」
 誠一は突然来た訳をルナに問いただそうとする。
 「私・・・もう誠一に会えないかも」
 ルナはそう口を開いた。
 「えっ?どうして?」
 誠一は突然の事に呆気に取られている。
 「私・・・実は人間じゃないの」
 ルナは俯きながらそう言う。
 「そんな・・・ルナはここに居て僕と喋ってるじゃないか」
 誠一は自分に好意を寄せてくれるなんて普通の女性じゃないくらいには思っていたが、ルナの発言は誠一の予想の斜め上を行っていた。
 「私・・・消されてしまうかもしれない」
 ルナは涙ぐんでそう言った。
 「もしかして・・・部長が病院に行った事と何か関係があるのかい?」
 誠一はそう思い返して尋ねた。
 「ええ。そうよ」
 ルナは躊躇する事無くそう答えた。
 「そんな・・・部長とルナは似ていると思ってたけど、まさか・・・」
 誠一がそう言い終わらないうちに、ルナは誠一の胸に体を寄せて飛び込んだ。
 「誠一・・・!」
 ルナは辛そうに誠一の胸元でうずくまる。誠一はそれ以上は尋ねなかった。
 「誠一、キスは初めて?」
 ルナは艶やかなルージュを塗った口唇を誠一に近付けて言った。
 「あ、ああ」
 誠一はルナの求めに応じる様にルナの背中に手を回す。
 「私も・・・最後のお願い。一度だけキスをして」
 ルナがそう言い、二人はゆっくりと唇を重ねた。
 「・・・これでお別れなのかい?ルナ」
 誠一は目を細めてルナを見つめる。
 「・・・もう一つ誠一にお願いがあるの」

 あくる日、誠一は美佐を連れて街外れの墓地を訪れていた。超高層ビル群を一望できる小高い丘の上にそれはある。
 「木田君、ここに何があるの」
 誠一は訝しがる美佐を連れてある十字架の前に立った。
 「ここはルナの墓です」
 十字架の足元の石板には、LUNAという刻印がされている。
 「ここは廃棄されたLUNA型人工生体を供養する墓よ。私の人工生体と同じ型だわ」
 ルナは十字架と誠一を交互に見る。
 「ルナは貴方の中に居たんです」

 美佐が医者に人工生体の違和感を相談してから1週間後、美佐は病院の手術台の上に横たわっていた。
 「人工生体と久生さんの同調が無くなって振り出しに戻りますが、異存はありませんか?」
 医者が巨大な電子機器と接続されたケーブルを持ちながら美佐に尋ねる。美佐は無言でただ頷く。
 「それでは、人工生体内の制御AIの初期化を始めます」
ルナが消えてしまってからしばらく経った冬の日の事—
 「ふあ~あ、正月明けの仕事は眠いわあー」
 美佐の同僚の176cmの長身の斉木紀子は、職場に一番乗りしてデスクに向っていた。
 「おはようございます、斉木先輩」
 そこに現れる誠一。
 「あっ木田君、あけましておめでとうー」
 紀子は快活にそう応えた。
 「先輩、ちょっと相談事があるんですけど、今夜空いてますか?」
 誠一はどこか重そうな口調でそう言う。
 「ええ、私なんかで良ければ」

 そして夜、紀子の行きつけのバーに呼ばれて、紀子と誠一は席を共にしていた。
 「僕が初出勤で道案内をしてくれたのが斉木先輩でしたね」
 誠一はあまり飲めない方だが、その日は酒が進んでいた。
 「そうね。君を初めて見た時、真面目そうでカワイイ後輩が出来て嬉しい、って思った」
 誠一と紀子がサシで会話するのは誠一の初出勤の時以来だった。
 「それで、相談事って何?もしかして、私に惚れた?」
 紀子は嬉しそうにそうきり出す。
 「まあ、惚れた腫れたの話ではあります」
 誠一はそう相槌を打つ。
 「そっか~、私キスとかペッティングくらいならいつでもOKだけど、それ以上はまだ許さないかも」
 紀子はそう言って横に居る誠一にアピールする様に長くて白い脚を組む。
 「いえ、あなたに対してでは無いんです」
 誠一はきっぱりとそう否定する。
 「えっ」
 紀子は思わず間抜けな様子でそう驚きの吐息を漏らす。
 「僕が好きなのは久生部長なんです。僕部長と結婚しようと思ってます」
 誠一のグラスを握る手に力がこもる。
 「美佐と・・・結婚?」
 紀子は独り言の様に驚きをもってそう呟く。
 「どう思いますか?」
 誠一は真剣な様子で紀子の顔を覗き込む。
 「どう思うって・・・そんな事の為に私を呼んだの?」
 紀子の声のトーンが変わる。
 「え」
 誠一は紀子が期待を裏切られた気持ちで居る事など微塵も勘付いていない。
 「あなた本気で美佐と結婚出来ると思ってるの?美佐は人工生体なのよ?あんなのダッチワイフじゃないの」
 紀子はバーテンも動きを止める程の勢いでそう声を大にする。 
 「先輩、女同士の友人に対してのその言い方は酷いと思います」
 誠一は妙に落ち着いた口調でそう早口で言い返す。
 「それよりも私とイイ事しない?実は私木田君の事を前から・・・」
 紀子がそう口説こうとしながら誠一の肩に触れる。
 「・・・そうですね、部長と結婚する前のSEXの実験台としてあなたと関係を持つのもありかもしれません」
 誠一は紀子の言葉を遮る様にそう言い捨てる。
 ビシッ!
 誠一が話し終わったのと同時に、紀子が誠一に対して無言でビンタを放った。
 「・・・それでは僕は失礼します」
 誠一は立ち上がってバーを立ち去る。跡には誠一の背中を睨み付ける紀子が残された。
 「・・・どうして私はいつも咬ませ犬の役なの?私が生身の女だから?作者何とかしてよもう・・・」
 紀子はそう言ってカウンターに突っ伏して泣き出してしまった。

 それからまた時間が経ち、誠一と美佐は有休を取ってハネムーンにやって来ていた。中東の産油国の潤沢な資金で開発された、近未来の日本を上回る程の天を衝くビル群。さながら近未来のバベルの塔だ。
 「木田君・・・いえ誠一、紀子からメールが届いているわ」
 美佐は174cmの自分よりも背の低い誠一に寄り添いながら、遠い日本から届いたメールに目を通す。
 「何のメール?美佐」
 誠一は美佐と顔をくっつけながらそう猫をあやす様な口調で話しかける。
 「結婚おめでとう、ですって」
 美佐はそう言うとスマートホンをポケットにしまった。
 「斉木先輩には悪い事をしてしまいました。」
 誠一は紀子と喧嘩別れした日の事を思い出した。
 「行きましょう」
 誠一と美佐は遠い異国の地を手を繋いで歩く。
 (この手の温もり、ルナと同じだ・・・ルナはまだ生きてる・・・)
 誠一はかつて美佐の体に宿っていたルナと手を繋いだ事を思い出し、ルナと同一人物だった憧れの美佐と結婚した喜びを噛みしめていた。
ハネムーンが終わり、誠一は自部屋にこもって作業をしていた。
 「これで同期が取れれば・・・よしと」
 誠一はこっそりと機械化した右手とパソコンを接続して、ソフトウェアを動かしていた。
 「これでまた会えるよ、ルナ」

 そう言って誠一がエンターボタンを押すと、右手の甲に紋章の様な光が浮かび上がる。
 「・・・いち・・・誠一」
 右手から声の様な音がする。
 「君は・・・ルナかい?」
 誠一は右手に話しかける。
 「・・・ええ」
 声の主はルナと同じ声色で、そう答えた。
 「初めてキスした日付を覚えてる?」
 誠一はルナである事を確かめる為にそう尋ねる。
 「12月22日」
 声の主はそう答えた。
 「よかったー・・・どうやらバックアップが上手く行ってたみたいだ」
 話の流れはこうだ。ルナは誠一と別れる時に誠一に頼んで、ルナの人格のバックアップを頼んでおいた。そして誠一の右手にコンソールを埋め込み、その人格を再生したのだ。
 「これからはいつでも一緒ね、誠一♡」

 誠一は右手にルナを同居させたまま出勤した。
 「おはよう美佐、・・・じゃなくて部長」
 誠一は奥さんになった美佐に朝の挨拶をする。
 「コホン・・・職場ではあなたは部下だから、私情は挟まないからよろしく」
 美佐は少し照れくさそうに挨拶を返す。 
 「分かってるよ」
 誠一は自分の席に座り、パソコンを起動する。
 何事も無く時間は過ぎ、夕方になった。
 (今あなたの心に直接語りかけています・・・)
 不意に誠一の右手の甲が光り、頭の中で声がした。
 「何だ、ルナか」
 仕組みは複雑なので説明は省くが、周りにルナの存在がばれない様に誠一にだけ声が聞こえるようになっている。
 「ねー誠一、私退屈。早くどこかに連れてってよ」
 ルナは小学生の様にだだをこねる。
 「ちょっと待ってよ・・・もう少しで帰れるからさ」
 誠一は周りに知られない様に小声でそう呟いた。

 残業も終わり、誠一は駅の近くで夕食を取っていた。
 「誠一、今夜は牛丼なのね。もっと贅沢すればいいのに」
 右手のルナの声を尻目に、誠一はン肉と米を飲み物の様に勢いよくかきこむ。
 「こっちはしがないサラリーマンなんでね。結婚もしたしお金が無くて食事代ももったいないのさ」
 誠一はあっという間に牛丼を食べ終えると、会計を済ませて店を後にした。

 誠一は自宅の最寄り駅で降りて繁華街を通り過ぎる。
 「ねー誠一、夜のお店にでも寄って行ったら?美人のお姉さんと酒が飲めてお話も出来るわよ」
 ルナがそう誠一との体の同居生活に物足りなさそうに言う。
 「ルナー、おっさんみたいな事言うなよ・・・それに僕は結婚してるんだから、遊んだら美佐に怒られちゃうよ」
 そう言って誠一は右手をポケットに突っ込む。
 「なんかつまんなーい」
 ルナは体があった時とはうって変わったかの様に、わがままを発揮して誠一との一体化を楽しんでいる様だった。
誠一と美佐は結婚した。その後のオフィスでの事―
 「誠一、そろそろお昼休みよ」
 誠一の右手のデバイスに埋め込まれたルナの意識が誠一に話しかける。
 「そうだね、ルナ」
 そう答えて誠一はキーボードを打つ手を休め、引き出しを開けて美佐の愛妻弁当を取り出した。
 「わーっ、エビフライにハンバーグ、タコさんウインナーまであるー。豪華ね、誠一」
 ルナは美佐の愛妻弁当を指差してそう言った。
 「一緒に食べようね、ルナ」
 誠一は右手に箸を持って、右手のルナに呼びかける。
 「誠一、あーんして」
 右手の甲が光って誠一の口におかずを運んでいく。
 もぐもぐ
 誠一はそれをよく咀嚼する。
 「どう、美味しい?誠一」
 ルナが頬がこぼれ落ちそうな誠一を見守る。
 バンッ!
 勢いよく部長専用のデスクを叩いて立ち上がる、そこに居合わせた奥さんの美佐。
 「いい加減にして!」
 美佐は怒髪天を突いたような怒りの表情で誠一を怒鳴る。
 「おや、どうしたんだい?美佐」
 誠一はきょとんとしている。
 「私とルナのどっちが大切なのよ!?」
 職場で夫婦喧嘩を始める誠一と美佐。
 「どっちって・・・決まってるだろ、美佐」
 思わせぶりな台詞を出す誠一。
 「ど、どっちなのよ・・・誠一」
 美佐は動じない様子の誠一に少しひるむ。
 「美佐の事が好きだ。でもルナの事も好きなんだよ」
 誠一はそう言って弁当を口に運ぶのを再開する。
 「誠一、食事中に喧嘩するのは行儀が悪いわよ」
 ルナが親みたいな事を都合よく言い始める。
 「そんな~」
 美佐は脱力して重役椅子に崩れ落ちる。
 「ゴールデンボーイの大江錦太郎みたいな事を言うのね、誠一クン」
 傍で3人の様子を見ていた紀子が呆れた様に呟く。

 休日になり、誠一と美佐は一つ屋根の下で憩いの時を過ごしていた。
 「見て、誠一」
 誠一と呼ぶのはもともとルナの呼び方だったが、現在は美佐も誠一の事を名前で呼ぶ。
 「美佐、その恰好は・・・」
 書斎で本を読む誠一が振り返ると、部屋の入口にワンピースにセーターを着て、ルナの恰好をした美佐が立っていた。
 「私は美佐なの?それともルナ?」
 もともと美佐とルナは同一の体に宿っていて、外見も全く一緒だった。
 「ルナの格好をしているけど、ルナは僕の右手に居るから、今の君は美佐だ」
 誠一は自分の右手の甲にある紋章を確かめる。
 「私、決めたの」
 そう言うと座ったまま動かない誠一の許に寄り添う美佐。
 「私、またルナと一緒になるわ」
 そう言って誠一の右手を掴み、自分の胸を握らせる。
 「美佐、それって・・・」
 誠一も右手に居るルナも言葉を詰まらせる。
 「ルナと私はもともと一心同体だったわ。ルナが元に戻れば誠一はまた2人を愛せるでしょう」
 その言葉を聞き、立ち上がって思わず美佐を抱きしめる誠一。
 「ありがとう、美佐・・・」
 誠一は涙を流して喜んだ。
美佐は人工生体化の主治医に依頼して、ルナと再び同一になる手術を始めた。
 「実は美佐さんにお話ししておきたい事があるのです」
 主治医は言う。
 「ルナはもともとあなたと全く無関係に生じた存在では無いのです」
 その言葉を付き添う誠一やルナ自身も聞いている。
 「それは・・・どういう事?」
 美佐は手術台に仰向けになり多数の電気コードを接続された状態で、主治医にそう尋ねる。
 「ルナはあなたの中から生じた存在なのです。あなたの願望が、人工生体の制御AIに影響を及ぼして、ルナの行動原理となって誠一さんとの日々を送らせたのです」
 誠一はそれを聞いてルナとの日々を思い出した。
 「そうなのかい?ルナ」
 誠一はルナに尋ねる。
 「・・・ええ」
 ルナは頷く。
 「誠一さん、美佐さんの中にルナを戻したら、もうルナとは会えなくなるかもしれません。それでもいいですか?」
 主治医は最後の確認をする。
 「分かっています」
 誠一はそう答える。
 「誠一、最後にもう一度聞きたいんだけど、あなたは私とルナのどっちがより好きなの?」
 美佐が尋ねる。
 「・・・僕は美佐かルナかどちらでもいい。ただ目の前に存在している彼女が好きなんだ」
 誠一が続ける。
 「彼女の顔の輪郭や目鼻立ち、そしてその肢体つき・・・その形に僕は惚れた。僕はただその"彼女"が微笑みながらそこに居てくれるだけでいい」
 誠一は横になる美佐の体の手を握る。
 「これからもずっと一緒に居ようね」
 美佐は瞳を閉じた。頭の中に電子的に接続された情報が、洪水の様に流れて来た・・・



 END