連続逃避小説「15の僕」(2009) 約26,987字

そこは景色はきれいだが人通りの少なくて静かな住宅街にある中学校。
 「あれはありえないよ」
 「うん、キモーイ」
 そう廊下ですれ違う女子に後ろ指さされ、ヒソヒソ話の対象にされるメガネで生真面目な印象の青年。
 (そう言われるこっちの身も知らずに・・・)
 青年はトイレで用を足し、手を洗い、廊下にある鏡で軽く髪と身だしなみを確認して教室に戻る。
 (なぜ外見でこうも男子に対する扱いが違うのだろうか)
 自分は男性に対する嫌悪感を、みな押し付けられている。メガネの青年はその様に考えていた。それにしても造語だろうか、"キモイ"という言い方はまるで人格否定だ。
 「河野、今日野球やるんだけど」
 「僕はいいや」
 河野と呼ばれる青年。彼は中3で、成績は上の中ほど。勉強は出来るがサボりがちで、塾の先生にもその点を指摘されていた。運動は好きではあるが得意ではなく、草野球によく誘われたが、あまり乗り気ではなかった。部活を通して運動能力はかなり上がったが、部活が終わってからはストレスを発散する手段も無く、何か不足感のようなものを感じていた。
 「家に帰って寝よう・・・」
 家は中学校から徒歩5分ほど。忘れ物をしても、休み時間に取って来れる距離だった。またその近さが仇となってか、彼は度々遅刻ギリギリに登校する様になり、息を切らし学校に着くと、汗をかいた恥ずかしさと寝不足とから周囲を気にしつつ机に突っ伏して休息をとるのだった。それも彼が特に夏季に利用した朝シャンと、毎朝20分以上かかる髪の毛のセットに原因はあった。洗面所を占拠するため、一度父親に邪魔そうに指摘され、「男の儀式だ」と答えた時は「笑わせるな」とまるで取り合ってもらえなかったのだった。整髪料は母親のものだろうモッズヘアのムースだった。それをピンポン玉、いやテニスボールぐらいにして念入りに髪を固める。それは完璧だった。そうしないと心配になった。モッズヘアはCMの外国人女性がすごく美人だったので好感があった。青年の髪は剛毛と言われた。またドライヤーの為か茶色がかっていて、染めてると思われていた。前髪が伸びると目にかかり、部活でバドミントンをしている時はけっこう邪魔になった。エロい人はとよく言われるが、髪はよく伸びた。フケがひどく、よく制服のブレザーに落ちて目立った。部屋でも勉強机にフケを落として集めてみたり、爪にたまったフケをシャーペンの先で取り、丸めてみたりもした。フケを溜めたらどのくらいの量になるのかと思ったりもした。風呂は2日に一回ほどだった。風呂に入らないと、次の日は寝癖が出来ずセットする手間が省けたからだ。また風呂に入っても体を洗うのは3回に1回くらいだった。それでいて彼は汗っかきだった。雑巾の様にシャツを絞って水が出る青年の同級生ほどではなかったが、気がつくと背中にびっしょり汗をかいていた。部活では後輩の女子に避けられ、脇が臭いと言う心無い人もいたので夏季にエイトフォーは必須だった。手洗いうがいはほとんどしなかった。それはほとんど家の近くが生活圏であまり家の中と外の区別が無かった事、手を汚さないようにしていた事、バカは何とかと言うが青年は冬の夜でも半そでで自転車に乗り、部屋でも暖房を使わずに過ごしていた。彼にとって何かに熱中する事は寒ささえも感じさせなかった。青年は情熱を得る為積極的に、次から次に熱中出来るものを探した。そして青年はオナニーの方法を知らなかった為か常に興奮状態にあり、46時中エロい事ばかりを考え部屋では延々と股間を触っていた。青年が中1で股間を始めてから、2年がたっていた。進研ゼミの問題集の余白にもスキさえあれば女の顔や胸を描き、描いては消し、描いては消し。そのうち余白が黒ずんだり紙がはがれてきたりした。さらには一階のダイニングで勉強する事を名目に、まず先に寝る事の多い母親、さらにテーブルの向かいでパソコンに向かっている父親が「お父さんはもう寝るけど、早く寝なさい」と言い寝るのを今か今かと待ち続けた。12時以降になると問答無用で寝させられるので、これはそれ以前に両親が眠らなければうまくいかなかった。そして青年は両親が眠り10分ほどたってから、リビングに行きこっそりテレビをつけ深夜番組を観始めるのだ。それはかれこれ中1くらいからだろうか。それまで10時には寝ていた身で、最初は12時過ぎのワンダフルの途中くらいでかなりの罪悪感に襲われていたが、やがてそれが1時になり、2時になり、そして3時と・・・合わせ鏡もカミソリ咥えて洗面器も何のそので、睡眠時間は削られていった。これは両親が早く寝るという条件の他に体力的な制約もあたので夜更かし→早寝の繰り返しで3日に1回くらいの夜更かし発動だった。青年にとって月の初めのケーブルテレビの番組表チェックと、その日のワンダフルやトゥナイト2の放送時間帯のチェックは重要事項だった。それと有料番組のプレイボーイチャンネルの番組欄なども見入っていた。そして青年の夜更かし可能帯である2時ごろまでにエロいVシネやポルノ、グラビア系がある事を探し、狙いを定める。よく痴漢電車とか団地妻とかあからさまなエロは4時とかになっていてキツかった。特に夜更かしの狙い目が土曜の夜。WOWOWでR指定の映画がよくあり、またアニメもゴールデンの時間帯からその月の目玉作品が放送される事が多かった。また深夜は一般にマニア度の高いアニメ作品が目白押しだった。だから夜更かしは必要だったのだ。夜更かしした後はそれがばれない様に、物音一つたてずに、抜き足差し足で階段を上り、ドアを閉めるのもスローモーションだった。もちろんリビングの電気は消し、スタンドだけをつけ、テレビの音量も最小で聴いた。その為耳はよくなった。特に2時過ぎにトイレに入るには相当な度胸を必要とした。ゆっくりと廊下を歩く時の、外の夜の光の漏れた冷たい床や階段のスロープが青年に身震いする様な様々な感情を呼び起こさせた。夜の無や寂寞に対する、何か本能的な感情。昼間の出来事がどこか遠くに追いやられて空虚になっていく様な不安でいて落ち着く感じ。青年は夜が好きだった。夜道を歩くのが楽しみで塾に通っていた様なものだし、夜は創作活動にも最も集中出来た。その為朝方や昼間は眠かったのである。クラスの人とも昼ごろになってやっと会話していた。眠る時間を見つけ、机に手をついて眠ったり、部屋のベッドにもぐりこんだ。
 (あれ、鍵が閉まってる。出かけたのかな?)
 青年はよく鍵を持っていかずに締め出される事があった。母親は専業主婦で、買い物か遊びに行く時以外は家にいた。といっても車を買いインターネットを始めてからは頻繁に出かけていた。大方近所にでも遊びに行っているのだろう。しかし青年は方向音痴というか興味の無い雑事にはまるで疎かったので、何となくの目星はつくが、仮に母親が事前に予定を話していても完全に覚えてないし、ましてや探したくても探せるはずなど無かった。
 (帰ってくるのを待ってるか・・・)
 青年は家の庭に立ち尽くし、過去にも同様の事があって、雪の降る中3時間ほど待たされた事などを思い出した。小学校中学年くらいの時だった。我慢強さはそこらへんで磨かれたのだろうか。
 「広也くん、家が開かないの?」
 「はい、そうです」
 家の通りを出た所を通りかかった比較的仲のいい同級生の母親に声をかけられる。内心笑われているのかもしれないが、青年はこういう所にはあまり恥ずかしさを感じない方だった。学校では散々キモイという扱いなので、旧知の相手に声をかけてもらえる事はむしろ嬉しかった。
 (どこかの窓が開いてないかな・・・)
 青年は家の周りをぐるぐる回ってみた。リビングの出窓の所で立ち止まり、ガラスに映った自分の姿を覗き込む。
 (僕ってカッコ悪いのかな・・・)
 青年は街中などに出かけても、鏡やガラスに映る自分の姿が常に気になった。洗面所で1時間くらいずっと鏡を見ていた事もあった。その時も自分の顔をずっと見ていると、時間を忘れていくようだった。しかしリビングの中を覗いて今何時なのか気になるし、時間を無駄にするわけにもいかない。どうにもならない事は分かっているが、青年は家の中を覗く事で解決の糸口を見つけようとした。
 「広也君」
 そう歯切れのよい何か優しいというよりは心につきささる様な、青年を呼ぶ声。
 「は、はい」
 広也が声のする方を振り向くと、郵便受けと表札の横に同級生の女子が立っていた。
 「どうも・・・」
 突然の有り得ない来訪者に戸惑いながら歩み寄る。相手はクラスでもアイドル級の、しかも清楚といよりは男を寄せ付けないくらいのキツめの美人だったので思考が空っぽになっていくのが分かった。
 「陽花・・・さん」
 広也が玄関先に行き、同級生の陽花という女性と向かい合うと、その雰囲気から緊張が増し、改めて現実感が薄れていく様に感じた。
 「お願いがあって来たんだけど」
 「お願い?僕に?」
 彼女の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。成績優秀、スポーツ万能で目立たない広也など全く相手にされないはずだったからだ。
 「私をかくまって欲しいの」

穏やかな晩秋の昼下がり。突然の来訪者。場違いな相手の雰囲気に驚きを隠せない広也。
 「か、かくまってって・・・」
 広也は突然の要求に困惑したが、相手の陽花の視線に見据えられ、次の言葉を詰まらせてしまった。
 「と・・・とにかく落ち着いて」
 広也は自分の意思を押し通す事については長けている、つまり自己中心的な面のある人間だったのだが、殊に予期せぬ事態や目立つような舞台にはてんで弱かった。、また相手が可愛いと、赤面し動機が激しくなり頭が働かなくなるという弱点も抱えていた。相手を意識し過ぎなければ平気なのだが。
 「・・・あ」
 その時通りの角から母親の乗る10万キロ走行の中古小型車が戻ってくるのが目に入った。
 「こっち!」
 広也は必死のジェスチャーで陽花を駐車場とは反対側の家の影まで連れて来て、車がゆっくり車庫入れするのを注意深く見つめていた。
 (ど、どうしよう・・・いきなり家に来られても、親に見つかったら怒られるに決まってるし・・・)
 その広也の焦りを察したのか、背後で様子を見守っていた陽花は、
 「私また後で来るから・・・」
 と言い残し、立ち尽くす広也を尻目に家の裏手の方へ軽やかな足取りで走り去った。とり残された広也はあたふたしていたが、リビングの出窓から買い物袋を提げた母親が扉を開けるのが見えたので慌てて体を伏せ、陽花を心配して玄関先の様子を伺っていると、一呼吸置き駐車場をすり抜けて通りを家とは反対側に走り去る陽花の姿が見えた。
 「ふう・・・」
 周囲の空気が日常のものに戻った倦怠感や安堵感に広也は学生カバンを肩で支えながら、いつもの如く玄関に入った。
 「ただいまー」
 玄関を開けたら大きな声で挨拶。これが条件反射だ。
 「ただいま」
 そしてリビングに入りもう一度言う。大体は親が挨拶を返してくれるまで言っていた。
 「あっ居たの、お帰りー」
 本当に気付いてなくて驚いたのか、それとも足音で分かっているがこれが口癖なのか。
 「今帰ってきた所だった」
 「知ってる」
 ここから5分くらいは誰と会ってきたとか話した事とか機嫌がいいのだが、こちらが気を抜くと家庭モードに入り豹変する。
 「制服着替えて来なさい!」
 母親にどやされ、ワイドショーに興味も無かった広也は2階に向かった。
 「広也ーカバンいつまで置いておくの」
 「・・・」
 階段を登る途中で母親の声が聞こえ、もう一度リビングに戻る広也。たとえ事前にその事を指摘されても広也は必ず忘れ、半ば怒られる事で初めて気付くのでそのように何度も階段を往復するハメになるのだった。
 「ふう、明日の準備・・・と。寝る前でいいか。」
 自分の部屋に着いた広也は親が引っ越して来た時に持ち込んだ天井に届く程の大きな本棚の一番下の棚の手前の本をどけ、その奥に並べてある漫画雑誌を手に取って読みたかったページをめくった。
 (そうそうこの興奮・・・)
 それは吸血鬼の少年とその少年に関係する少女や敵対する存在を中心としたファンタジー系の漫画で、美麗なキャラクタのHシーンが惜しげもなく描かれ、特に女性の胸の描写が青年を釘付けにした。もともとその漫画雑誌はおおっぴらにエロ漫画を買えなかった中学生の彼が、少年向け漫画に雑誌創刊の広告があったのを目にして、エロが含まれている事を期待して買い始め、その漫画を読んだ時はまさに当たりという実感を得たのだった。事実その漫画は青年誌としては過激なものだった。ヴァンパイアの少年に与するグラマーな少女が貴族を称する敵に捕らえられ、その敵の女のしなやかな細指と鋭利な爪で乱暴に乳房を揉みしだかれる場面を見た時の衝き動かされる感じを、彼は何度も読み返して確認した。漫画の表紙に入る前の広告のページを見ただけで興奮が起こった。彼が日常生活で浸る妄想の時もその感覚は始終彼を捉えていたし、それはまたそれ以前のある時には本棚に置いてあった母親の女性誌を探していて見つけた細かい模様のついたランジェリー姿のエキゾチックな黒髪の白人女性の写真等を見る事で、他には若い日焼けした日本人の女性の下着姿に"スレンダーなのにグラマー"と銘うったものもあり、紙のにおいや探してる気持ちとか含めてイメージが構成されていて、隙さえあればそのページを辿り悶々としていたのだが、その雑誌は何故か母親に処分されてしまった。だから青年は次の糧を探してミュージシャンの特集の為に買われていた月刊カドカワに行きあたった。そこにはプールに行った先で目の前の女の水着が外れておっぱいが見えたとか取りとめも無い事を日記風に書いてある小説や、若い男と未亡人の女が駆け落ちして新生活を始めて、喫茶店に行ったりとか一日中交わって部屋が性臭に満たされたりとか、一念発起した女が美貌を磨いていつも風呂上りみたいな状態を手に入れたりとか、いろいろあって青年はそれらを何度も読んで感覚を確かめたのだった。

 「広也ー、そろそろ塾の時間じゃないの?」
 バタンッ
 広也は塾の授業が始まる5分ほど前になると、急いで階段を降り、家を飛び出して自転車をダッシュでこいで塾に走って行く。それほど時間ギリギリになる原因には、WOWOWのノンスクランブルのアニメや世紀末に流行したファンタジー系のアニメを観るのが何より楽しみで、その後ジャージのままで行くか数少ない私服で行くか迷ったりしたからであった。彼の私服は冬になるとデパートの安売りで買った青いトレーナーか灰色のトレーナーの二択だった。何着もの服を自分のものとして着こなしている自信は無かったし、何よりファッションセンスは無いし似合う服もなかなかなかったので、極力学校のジャージを着ていった。ズボンは細い青のジーパンで、上着には灰色のフリースを着ていた。これで寒さを感じる事は無かった。塾につくと早い時はまだ人もまばらだったが、時間を過ぎるとまだ授業は始まっていなくても皆揃っている所を息を切らして座らなければいけなかった。しかし人と話すのが得意ではなかった青年にはその方が好都合だった。塾ではテストの成績が優秀な人から順に前に座ったので、彼は後ろの方の列であった。その為高身長な全国レベルの優等生達の背中を見ながら授業を受けていた。
 「河野、背中すごいぞ」
 授業前は皆雑談をしていて、青年もたまに話しかけられる事があった。
 「うわっほんとだ」
 「すげえ」
 周りの人達が彼の背中を見て一様に驚くので、広也は背中を確かめてみた。すると自分では全く気付かなかったが、服の肩から背中にかけて抜け落ちた髪の毛がごっそりとついていた。そして皆に笑われた。
 「大丈夫?」
 と真剣に心配してくる人もいて、彼はさらに笑われるのだった。その後青年は何度か背中を見たが、そのような状態が少しの間、何回か続き内心動揺した。
 (あと30分か・・・)
 授業が始まり最初の方は気合が入っているが、時間帯は夜中なのでだんだんと疲れが出てくるし、中2も終わろうとしていた時草野球をしていて周りがごみ箱に捨ててあったエロ漫画を取り出してふざけていてアニメ絵柄のレズものとかいろいろ目視したが青年は解散の後夕闇と激しい高揚感の中、エロ漫画をシャツの中に入れて急いで部屋に持ち帰った事があり、中3になった頃はエロ漫画が再びゴミ箱にある事を期待していて、窓の外を見てその事を考えていて内心いてもたってもいられなくなっていた。彼は周りの人達のように塾が終わった後コンビニなどに寄らずに一人でまっすぐ帰宅していて、ばれない様に屈んだりしながら夜の公園にたたずんでいた。最初落ちていたのを何冊か持ち帰って以降、結局一度もエロ漫画は無かったが。それにしてもエロ漫画の余韻含めて彼は夜自体が好きだったので、無機質で眩しい蛍光灯の差すきれいだが緊張する塾の教室を出て、おぼろげな街灯や街路樹の続くうら寂しい夜道を今日も歩こうなどと考えながら授業の後半は半分自分の世界に浸っていた。
 そしてその時々で何か考えようとしていた事とかその道で過ごした思い出などを暗闇に重ねながら、出来るだけゆっくりと家路を歩いた。何もしていない歩いている時間が彼にとっては安らぎだった。静かな景色を見ているのも、長い道を歩く事も好きだった。彼が趣味の漫画を描き始めた小学校低学年の時は、漫画のアイディアは下校中に思いついた。そしてこの頃も彼は気分転換のために、たまに自転車をこいで地区内の普段行かない所などを走っていた。森と隣接している通りを走ったり、彼は犬が苦手だったが、子供が犬の世話をしている通りなどもあった。そうして何も考えない時間を過ごす事で、彼にとっては気が紛れて気分を一新する事が出来た。その頃の彼の目に映るもの全てが、本質的で、魅力的で、そして夢から醒めない状態の様だったのかもしれない。それは彼自身や物を見る目がそうであろうとした所為もあるだろう。
 (やっと着いたか)
 とはいえ家路は長く、自宅に近付くにつれ彼自身の日常や反復的作業もまた迫るのだった。彼にとっての彼、そこから成る自分の殻というのは必ずしも幸福等を意味しなかったから。彼は内向性でありまたはたからもそれを選択しているかの様に見えたが、あくまで彼の欲求するものは外だった。だが彼がそれを人並みに成すにはあまりに両面から閉ざされていて、現在の内なる自己への嫌悪と、外へのイメージのみがそれぞれ対照的に隔絶され存在していた。学園ドラマに出てくる暗いメガネの男が、初めて夜の繁華街を歩く、それ同様な欲求を認識していて、そしてそれがまた嫌悪だった。
 (やっぱりうちの家は狭いよな・・・あれ?)
 いつもならそれだけが煌々と光っている門灯に、照らし出される人影。
 「こんばんは・・・」
 広也は訝しげに家の前に歩いて行く。
 「・・・広也くん」
 「!!」
 その人影の相手に気付いた時、思わず絶句する広也。
 「・・・来ちゃった」
 それは昼間に一度広也の家を訪れていた同級生の美少女、陽花だった。

(まさか・・・本当に来るなんて)
 憧れの美少女が自分の部屋に来る事がかなり確実だという目の前の状況に、広也の心臓はバクバクだった。
 「河野君、わたし・・・」
 広也が驚いたまま何か尋ねあぐんでいる様子の為か、陽花は俯き胸元に添えたしなやかな指先をギュッと握り締め、切羽詰まった様な面持ちで唇を噛み締めた。
 (よ、陽花さん・・・)
 いつも高嶺の花の様に感じていた目の前の少女が、その時は何故か小さく見えたのだった。
 (陽花さんが・・・僕なんかの事を・・・頼っている?)
 広也は思考回路でなく、今この状況に対する反応そのものだけで動かざるを得なかった。
 「と、とにかく外は寒いから、部屋に行こう」
 広也は暗闇とそこに浮かぶポーチライトと白い建売らしい洋風の扉へと続く玄関先のタイル張りの石畳の道を手招きして、躊躇する陽花を呼び寄せた。
 「狭い家だけど」
 通りというかその地区一帯でも家の作りが最も小さい部類だったので、それは確実だった。
 「いいの?私が来ても・・・」
 「いえいえ、滅相もない」
 むしろ嬉しい、とは体面上さすがに言いたげた。
 「ただいまー」
 玄関に入り挨拶をする。家族はリビングでテレビを観ているのか、返事は無い。普段はそのまま2階まで上がる事は無く、まずは掛け時計とテレビ番組の時間帯を確認し、家族とひと言ふた言話すのだが、今夜は事情が違いそそくさと階段を登って行く。いつもならメガネ姿の中学生一人が映っている下駄箱の全身鏡にも、その背中について来る場違いな美少女の姿が映り込む。
 (階段、静かにね・・・)
 (うん・・・)
 ただでさえ安っぽい木製の階段と、薄い板壁だ。足音もそうだし、部屋からは1階で話す家族の声もほとんど筒抜けなのだ。二人は階段上の廊下の曇りガラスから漏れる微かな冷たい光を頼りに、踏み外さないよう慎重に登って行く。
 「うわっ」
 何の気なしに顔を上げた広也は、思わず仰け反って真っ逆さまに転落しそうになった。
 (どうしたの?)
 そう広也の方を見下ろして無邪気に尋ねる陽花だったが、広也は危うく陽花のひざ上のかなり空いたミニスカの中に顔を突っ込みそうになっていた。もともとせっかちな上にかなり慌てた状態だったからか、知らず知らずのうちに接近していて陽花のスカートのひらひらが度々顔を叩いた。それに薄い布地のパンツが見えていた。
 「手前の部屋です」
 「あっごめん」
 階段を登り、同じ様なドアが狭い廊下にひしめいていてどれが広也の部屋の入り口なのか迷う陽花。広也はその横をかわすように通り抜け、自室のドアを開けた。
 「狭くて机とベッドくらいしか無いけど・・・二人くらいなら何とか収容出来るかな」
 部屋には廊下からドア、そして室内という導線を遮断する様部屋の真ん中に横向きにベッドが置かれ、その奥にある学習デスクに隣り合う様に枕が置かれていた。机の横と椅子の後ろにそれぞれタンスが置かれていた。机の横の小さい方は引っ越して来た時からあったもので、最初は一階の廊下のクローゼットに置いてあったが部屋に置いて使うようになった。その頃はラジオを置いて平日の夜10時からジェット機のエンジン音が聞こえてくる頃まで、楽しみにしていたテンションの高いDJのラジオ番組や、その番組や他の休日のミュージシャンなどのラジオ番組から録音したカセットテープなどを聴いていた。大きい方は新しく出来た車で15分の近所にあるジャスコで展示品を買ってきたものだった。以前は小さいタンスと一緒に机の横に置き、MGZZガンダムのプラモデルを飾っていた。ベッドの奥にある出窓にも作ったモビルスーツ達を飾り、家にあった8ミリビデオカメラで撮影会をやっていた。あとは夜中とかに双眼鏡でかわいい女が通らないかなとしばらく窓の外を眺めたりしていたくらい。それと8ミリではSDガンダムのプラモなども使って劇を作ったり、自分の顔を撮影してみたりもしていた。夏の暑い時はバドミントンのラケットをギター代わりにして飛び跳ねたりして、痩せた体に下着のシャツ一枚で伸びた髪をふり乱し自分に酔ったりもしていた。秋ごろからは、前述の通り疲れたらすぐベッドに横たわれるように、机とベッドをくっつける形で配置していた。壁にはパソコンから印刷したνガンダムのカレンダーや、PGガンダム用のクリアパーツをそれ目当てに買い、トイざラスで貰った1stガンダムの胸像の立体ポスター、パン屋のポイントをためてもらったクマさんの顔の形の青い壁掛け時計などがあった。机の側面の壁には美術の時間に自分のトレードマークを木の板に彫って作った時の、河野のイニシャルであるKという文字と、苗字の河をテーマに歯磨き粉みたいな三色に流れる模様をくっつけたという情けない作品も一応掛けてあった。
 「どっかテキトーな所に座ってて」
 広也はそう言って難解なテキストや塾のホワイトボードの内容を書き写したどんどん増えるノートの入った馬のロゴの付いた入った薄いカバンを開け、学習デスクの椅子に座り机に肘をつく。
 「ありがとう」
 陽花は机に向かう広也に背を向け、目の前にあった本棚から本を選び、そのまま後ろ足にベッドに腰掛ける。ポン、と陽花の抜群のプロポーションが上体からやわらかい布団の上に、スプリングの反発を受けつつ乗せられる軽い音がする。そして陽花は古めかしい変色した文庫本をめくる。中学生には難解で退屈な内容も、苦も無く読めるようだ。しかし読んでも退屈しのぎの気休めくらいにしかならないだろうし、図書室で角川スニーカー文庫などを読んでもイラスト目当てなくらいの広也には、読む気にもならなかった。そして広也の本は絶対数が少ないし漫画本ばかりだし彼女が好みそうなものはなかった。
 (今のうちに今週の宿題をやっておこう。いつも通り前日に出来るか分からなくなったからな・・・)
 気が付くと広也は塾の宿題に集中していて、手元が暗くなったと思ったら、読んでいた本をベッドの上に手放した長身の陽花が背後から机を覗き込んでいた。
 「へえー、こんな難しい問題を解いてるんだ」
 広也が解いているのは中学生レベルとは思えない、難しいと専ら話題の問題集だった。
 「あまりよく分かりませんけど・・・お世辞はいいですよ」 
 広也は下がり気味のの分厚いメガネを人差し指と中指を眉間を支えるように持ち上げ、そう呟いた。
 「頑張ってるのね」
 陽花は広也の生活を知って意外と言わんばかりに、感心したようだった。
 「陽花さんこそ、成績は学年でもトップを争うのに、どうしたんですか?」
 広也がそう言って陽花の方を見遣ると、彼女は顔を逸らし、その繊細な瞼を静かに閉ざすのだった。
 「私は・・・もういいの」

動かなくなった部屋の空気。陽花の悲しげな様子も、初めて見たような気がした。
 「もう学校には行かないんですか?・・・それにしても、まさか僕の部屋に来るとは」
 「あなたしか頼れそうな人がいなかったから・・・」
 学校では勉強が出来るだけではなく部活動でもテニス部で県大会の常連というエースだったので、いつも彼女の周りには人の輪が出来ていたので彼女の言葉は思いもよらなかった。美人という事にも苦労があるのだろう。彼女にどんな事情があって、そして逃げてきたのか、気にはなったが敢えて聞かなかった。

 時計の秒針を刻む音だけが、どこか不安げな反復を続ける深夜。目を凝らすと、単純な階調のベッドに横たわる2人の姿が闇に浮かび上がる。仰向けになった青年と、ベッドの外側に横向きになり肢体を曲げて眠る女の体の線をなぞる一枚の布団。眼鏡を外したほとんどぼやけた視界で、その時が止まったような曖昧な空間を見据える広也。時折通りに進入する自動車のヘッドライトが、カーテンレールと壁の隙間から部屋の境界に沿って形を変えつつ天井を照らしながら、ほぼ一定の動きで闇の中を通過し、消えていった。
 「・・・・・・」
 傍らの陽花の肢体の温度が手に取るように分かる。陽花の美しい曲線をした頬も、カーテンの外の僅かな光を照り返し、冷たく浮かび上がる。彼女の胸もオシリも手を伸ばせば届く所にある。しかしそこにはまだ見えない大きな壁があって、眠りについている様だった陽花の肢体は始終強ばっていて、怯えている様だった。

 翌朝、広也は普段通りの時間に起き、特に寝不足な目をこすりながら、いつもの様に朝シャンをし、30分ほど時間をかけて髪の毛をセットし、登校時間ギリギリ5分前ほどに若い引き締まった肢体をベッドに悩ましく投げ出し、布団を被ったままの陽花を部屋に置いたまま、家を飛び出し汗ばむのを気にしながら、走って学校へと向かった。
 「おはようございます!」
 校門から校舎の入り口にかけて、生徒会の人達が並び、はきはきと登校する生徒に対して挨拶をしていた。そこに急いで到着した広也。
 「・・・・・・」
 彼は笑顔で挨拶する生徒達の中を、俯き気味に無言で通り過ぎる。最初の頃は挨拶していたのだが、だんだん挨拶しても無視される様になっていたので、その頃はほとんどその様な状態だった。小学生の頃は道ですれ違う知らない人全員に挨拶をする程で、明るい挨拶が取り柄だった広也にとっては、挨拶をしない、また出来ない事は呵責を感じる事ですらあって、だんだんと自分がその様な暗い性格になっていく事は悩みのタネにもなった。それは遅刻に関しても言える事で、広也は小学校中学年くらいの時は、しばしば学校に一番に登校し、用務員の人が玄関の鍵を開けるのを待っていた程だった。高学年になると学校に時間ギリギリに登校する事に憧れて、通学途中の公園のベンチで20分ほど居眠りをして時間をつぶした程だった。それがいつの間にか中学校が近くにあった事によって、時間つぶしをするまでもなく遅刻ギリギリの常習犯の様になっていた事は、苦労が減った反面、ズルズルと生活態度の悪化につながり、健康な精神を蝕んだ。

 キーンコーンカーンコーン
 午前中の何時間目かの終業のチャイムが鳴る。受験が近かった為か、その頃になると授業中に塾の問題集を開いたりしていて、それも他の授業の宿題をする内職と同じものと見做されるものだったが、彼の先生が机に近付いた時だけそれを隠せばいいという発想と、彼は良くも悪くも日頃教師から怒られる事の少ない比較的優等生だったので、上手く隠れていた事もあってその様な大胆な行動にも出ていた。同様に、かつては授業中にオリジナルのモビルスーツのデザインを考えたり、山月記など国語の小説の内容のイメージの絵を落書きしたりもしていた。数学の教科書にもページの端に平面幾何の定理がパラパラ漫画で説明されていたのに倣い、全然関係ないロケットのパラパラを描いていた。つまり彼にとって退屈な授業時間というのは無かった。試験の残り時間も、立派なお絵かきタイムとなり得た。大体自宅学習においてもそれは言える。試験前ほど漫画や絵がはかどるのだ。それは彼の逃避的性格の現れと言えよう。
 (寝るか)
 広也は授業のテキストとノートをしまい、机に両手をついて頭を乗せた。居眠りの姿勢も恥ずかしくならない様に気を配った。その頃は都合さえあえば隣のクラスの友人とベランダで休み時間毎にエロ話をしていた。その友人というのは彼の部活でダブルスを組んでいた人で、部活が終わってからはそうして集まっていた。また彼を塾に誘ったのもその友人だった。成績は友人の方が少し上だった。数え切れない程のエロ話を飽きもせずに次から次へきり出していたのだが、彼はたまにエロアニメの話になると妙にテンションが上がった。その頃はマニアックなアニメなどはおたくという社会不適格な人間が観る者、というのが世代内での認識で、エロアニメが好きだと知られるのは、そういった友人間でのエロ話においてもご法度だった。彼はいつも自分が好きな音楽などの話を友人としたいと思っていたが、ミリオンヒットを飛ばす様な曲がやっと評価対象となるようなその頃は、実際にはそれは声がうわずるようなもので、最小限しか出来なかった。それでいて彼にとってはそれが自分を主張出来た様な気がして大きな満足感をもたらした。エロ話はアニメなどのタブーをあからさまに突破しなければ、ある程度はエロ傾向のあるアニメや漫画の話も出来たし、他は特に制限が無かったのでエロに対する真摯な態度が出来上がっていった。友人が教室の移動などで教室にいない時は、広也はクラス内に居場所も無かったので机で寝ているしかなかった。幸いその頃は後ろの席でいつも予習復習をしている人がいた。彼は人望もあり、机に座っている広也が無口で根暗な人間と思われないための、精神安定の効果があったというか、最後の砦というか、唯一の救いの手だった。彼は過去には小学生の時広也の漫画仲間でもあった。また、彼の100点以外のテストの答案を見た事が無かった。春ごろに彼のノートを見た時、既に英語の予習をほとんど最後まで終わらせていた。ちなみに彼に漫画の描き方を教えた友人も、同じクラスにいた。それは彼の創作活動にとってある意味ジンクスの様なもので、すごく心強かった。教室ではほとんど一人だったけれど。
 (ん・・・)
 しばらく机につけていた顔を上げると、いつの間にか皆が着席していた。しかし陽花さんの席は空いたままだ。あれだけ人が集まって騒いでいたのに、いなくなったらなったで意外と気にしていない。これが風邪を引いて休んだりして、1日2日して戻ってくるならまた温かく迎えられるのだろうが、もう学校に来る事は無いだろうという事を、広也だけが知っていた。部活でも学業でも大きな期待を受けていただけに、その損失は大きいだろうし、広也自身すごく残念に思えた。

 広也が家に帰ると、部屋で制服姿のまま小説を読んでいた陽花が顔を上げ、笑顔で迎えた。
 「広也くん」
 まださっきまでは半信半疑だった扉の向こう。しかしその疑いは今や確信により近付いていて、同時に昨日までの現実は急速にその形を失っていくのだった。
 「ずっとここにいたんだ」
 「ええ。おかえり」
 広也は照れくさそうに陽花と見つめ合っていたが、ドアの方を向いて急いで段ボール箱などを利用したバリケードを置きドアノブが動かないようにした。
 「それ、何なの?」
 扇風機の空き箱、運動靴の空き箱、ガンダムの劇場版のフィルムコミックを詰んだ滑稽なバリケードを、訝しげに差す陽花。
 「ああ、漫画を描く時に勝手に家族が入ってくると気が散るから、設置した。描くのに熱中していると、家族が来たのに気付かない事が多くて・・・」
 「ああ、そう・・・」
 「これで僕が部屋にいる間は家族に見つかる心配は無い。」
 それから、広也は陽花に学校の様子を話した。
 「もしかしたら、私は転校したって事になるかもしれない」
 「そうなのか・・・」
 陽花を取り巻いていた環境がどんな事になっているのか、広也は分からなかったし、知りたくも無かった。それよりも目の前の現在の方が大事だったからだ。そして広也自身、未来の事を考えたくは無かった。彼にとってのレールの先は、全くの暗闇でいくら見ようとしても、皆目検討のつかないものだった。

(やばい・・失敗した)
 洗面所の鏡の前で、呆然と立ち尽くす広也。父親が買ってきた櫛に刃がついていて、髪をコームする感覚で切れるという道具を使い自分で髪を切っていたところ、誤って一部だけを短く切りすぎてしまったのだった。
 (これ以上切ったらもっとひどくなりそうだし・・・このままにするしかない)
 次の日の学校で広也は、皆の笑いの的になってしまったのだった。短くなった所は前からでは目立たなかったが、横からよく見ると一部分だけバッサリと切ってしまっていた。
 (恥ずかしいから、もう学校と塾以外で外出するのは極力避けよう。コンビニに最後に行ったのは夏祭りの時家で一人で食べるためのお菓子を買った辺りだったけれど、もう行かないだろう)

 広也が憧れていた同級生の憧れの少女、陽花が自分の部屋を訪れてから、数日が経過していた。世の中はそんな名前も知らない2人の中学生の事など意にも介さぬといった様子で、何も変わる事は無かった。街ではクリスマスソングがリリースされ出す頃だった。
 「ただいまー」
 「おかえり・・・アハハ、髪の毛」
 彼女が開口一番に発したその言葉は、デリカシーの無さというより、部屋ではずっと手鏡と睨めっこいていて、翌日の今日はうなだれて学校から帰ってきた様な広也に対する、気遣いの様に捉えられた。
 「やめてよー・・・」
 「ごめんね」
 そう言って長くてしなやかな脚の向きを変え、ベッドに体育座りで読書に戻る陽花。
 (何か嫌な事したかな、僕)
 広也はカバンを置きフリースを椅子にかけながら、さりげなくクンクンと部屋のにおいをかいでみた。もう何日もお風呂に入っていない陽花の、若く新陳代謝の活発な為の体臭が部屋中をつつんでいた。しかしもともと手入れが行き届いている、美しく健康的な肢体から発せられるそれは、もはやフェロモンの様ですらあった。
 「ねえ、何かこの部屋寒くない?」
 広也の部屋には暖房が無かった。部屋から一歩も出ずに全く動いていない陽花は制服の袖を掴みながら、女性らしい線の細い華奢な肩を小刻みに震わせた。
 「そうかな。僕は平気だけど」
 広也はまだ部屋ではジャージの長袖を着ていれば平気だった。とはいえ木の葉はほとんど落ち、道行く人達もロングコートなど冬の衣装に身をつつむ様な時期だったので、寒い思いをさせるわけにもいかなかった。
 「僕の服だったらあるけど。重ね着すれば温かいと思う」
 「服どこ?」
 「そこのタンスの中だよ。」
 広也は椅子を引いて、握っていたシャーペンの頭で上半分が観音開きの扉になっている、大きめの3段のタンスを指差した。陽花は振り向いて確認すると、ベッドから下りてタンスの前にしゃがみ、引き出しに手をかけた。タンスの中からは木のにおいが放たれる。陽花はその中から自分が着れそうな服を探した。
 「??このノート・・・」
 陽花は積まれた服の間から、表紙が青や黄緑のリングノートを発見した。
 「ス、ストップ!!」
 広也は慌てて椅子に足を引っ掛けながらノートを掴む陽花を止めようとしたが、その目の前でノートは開かれる。
 「・・・・・・」
 もう後の祭りだった。それを諦めた様子で見守る広也。そしてノートを読み進めながら、見入る陽花。ノートは2冊あり、彼女はそれを順に読んで行った。内容は2冊目の途中で途切れていた。
 「陽花さん」
 広也は俯いて前髪で表情を隠し、絞り出す様な声でそう呼びかけた。
 「広也くんムッツリスケベって・・・本当だったの?」
 その漫画を観た陽花の反応に、静まり返る部屋。
 「ハハ・・・僕部屋でエロ漫画描いてたんだ・・・数だけどんどん増えちゃってて、捨てようにもバレるとマズイから、困っちゃって・・・いついつまでには何とかしないといけなとか、どうしたらいいかとか、考えると不安で夜も眠れなくなる」
 そう弁解する広也の顔は、実年齢以上に複雑な表情を作っている様に見えた。
 「・・・・・・」
 陽花は漫画の良し悪しよりも、悩める広也の姿の方が心配になった。というのも自分の闇の部分を描いた様な漫画を他人に見られるのは、自殺モノだったからだ。
 「・・・がんばって」
 「家族か知り合いと本屋に行って、そこに自分の描いたエロ漫画が置いてあって恥ずかしい気持ちになるという夢を見たんだ。僕はエロ漫画なんて軽蔑してるし、そんな風にはなりたくない」
 広也は独り言の様に消え入る様な声で、そう呟いた。
 「で、でも漫画タンスの中に置いておいたらかわいそうだよ。本棚に置いておくよ?」
 「ちょっと!家族に見られたら困るの!描く時に取り出すんだから。それより、着替えなよ」
 「あ、うん」
 そう答えて陽花は制服の上をはだけた。
 「わわっ」
 広也は赤面して机の方に逃げた。
 (あ・・・見たかったな)
 一呼吸おいて広也が背後を振り返ると、広也のグレーのフード付きトレーナーを着た陽花がいた。続いてスカートを脱ぎ捨て、長ズボンをはく。少し丈は短いようだった。陽花は肩に付くくらいのショートヘアだったので、広也が二人になったようだった。
 「胸とオシリがきついわ」
 (いいな・・・女性は。それに比べて男は何て汚いんだ)
 広也は二次性徴に差しかかった自分の体を見下ろし、絶望するのだった。

 「あれ、この漫画タンスから本棚に移動したの?」
 「うん。いちいちタンスから取り出すのも面倒だし、3冊目に入ったしね。よく前の漫画も絵や話の参考に見るからね。家族には観られるかもしれないけど」
 親が部屋に運んだ大きな本棚を広也が整理し、その一角に自分の漫画コーナーを作ったのだった。そして学習デスクの棚などに隠されていた最近の漫画も含めて時系列にまとめ、たまに広也自身が取り出して観ていた。広也がこの時描き続けていた現代風超能力漫画は、その並べられた漫画の上、棚との隙間に横にして置かれていた。
 「でも他の漫画と一緒には並べないんだ」
 「他の作品とは別扱いにしている、という事かな」
 「今どんな話を描いているの?」
 「うーん、話と言うほどのものがあるのか分からないけど・・・一つのシーン、見せ場の連続みたいなもので。謎を解決しようとして、さらに謎が増えていってる様な感じ?」
 「そうなんだ。その話はいつ考えるの?」
 「寝るとき。起きてる時は手を動かしてるから、寝る時考えないと」 
 そう言って広也はまた机に向かって漫画のコマを描き進める。学習机に付いていたライトは壊れてしまったので、それも昔からあった卓上ライトの下でシャーペンを走らせていた。
 「でも寝てる時そんな風に見えなかったケド・・・妙に鼻息荒くしてた様な・・・」
 陽花は広也の漫画をベッドに投げ出した脚の上に広げて眺めながら、ボソッとそう洩らした。
 「それは仕方無い・・・いや、漫画のネタとエロい妄想両方してるんで」
 「エロい妄・・・想・・・?」
 「知りたい?考えてる途中で結構寝ちゃうから、次の晩に続いたりもする」
 「興味無い」 
 「そう?・・・陽花さんもそういう事考えたりしないの?」
 「サイアク」
 広也のデリカシーの無い質問に、陽花はそっぽを向いて目を合わせてくれなくなった。
 「・・・さて、そろそろ下に降りて勉強するか」
 広也は深夜番組を観る為に、勉強道具を持って部屋を出て行った。

 キイ・・・
 午前3時頃、広也が抜き足差し足で陽花が布団を被って寝静まった真っ暗な自室に戻って来た。
 (今日も遅かったね・・・)
 広也が布団に入ると、不思議なくらい目を開いた陽花が囁きかけてくる。
 (ああ。最近は親のパソコンをこっそり使って、インターネットやってるんだ。エロCGが見れてコーフンするよ)
 (じゃ最近テレビは観てないの?前なんて一度寝た後にまた起き出して、またテレビ観に行ったりしてたのに)
 (エロアニメ録画した時か。番組宣伝の時にどうしても観たいと思ったやつ。)
 横になったまま陽花は幾分頬を赤らめてその話を聞いていた。
 (でもインターネットは18禁が見れるよ。触手モノのアダルトアニメとかも。いっつも早く18歳になってエロゲーとか思う存分やりたいって妄想しただけで待ちきれないのと楽しい気分になってから、年齢認証突破する時はちょっと罪悪感も感じるけど)
 (そう・・・お休み)
 (よ・・・陽花さん・・・へへへ、二人で体を温めあわないかい・・・?)
 (何言ってるの?漫画の話・・・)
 (そうね・・・)
 そして死んだように眠る陽花と、何か夢の中で寝言を言っている広也であった。

 翌朝、夜が白みだした頃・・・
 (ん・・・何かパンツの中が冷たいような)
 広也が上体を起こしブリーフを確認すると、白い大量の液体が付着していた。
 (何だこれ・・・確か前にもこんな事が・・・何だっけ・・・まあいいや)
 現実の事物からどんどんと興味が薄れていく広也。広也にとっての物理法則に支えられた現実の世界と、テレビや雑誌、また自分の創作によって成る虚構の世界の境界は限りなく曖昧になり、世の中も、自分も覚めない夢を観ているかのようだった。そして彼には振り返る余裕はほとんど無かった。ある夜には蛍光灯の明りの下、リビングのドアのガラスに映る自分をしばらく眺めていた。そこには成りかけた自我と、その自己の不定形になって行く変容の様があった。

「ただいまー」
 広也が帰宅し自室に入ると、机に座って広也がラジオから録音した音楽を聴いていた陽花が振り向く。
 「広也君洋楽とかも聴くんだ」
 「あれ、それ僕のカセットテープ?は、恥ずかしい」
 「勝手に聴いちゃった。ありがと」
 「別に・・・ジャンル関係無しに好きだと思った曲が流れたら録音ボタン押すだけだよ」
 その頃広也が録ったカセットにはライクアバージンとか、60年代ブルースまで入っていた。他のカセットでもヒット曲の大体はカヴァーしていた。
 「夏頃は休日は一日中音楽番組観てVHSに録画したりしてたけどね・・・今はいろいろ忙しいし」
 その頃広也はだんだんとミクスチャーやヒップホップにハマりかけていたのだが、陽花が部屋に来た事で音楽番組やラジオを聴く時間が減っていた。そのためそういった音楽を耳にする機会も無かった。
 「広也君の声が入ってる所もあったけど、あれは何?」
 「あはは・・・」
 広也にとっては自分が漫画を描いているという意識は無く、それは目標以前のごくごく当然の事で、むしろミュージシャンになりたいと思っていた事から、たまに自分でも歌ってそれを録音していたのだった。日記の隅には<将来の夢 1.ラッパー 2.哲学者 3.評論家・文芸家 4.エロゲーやエロフィギュアを紹介する人 5.エロアニメなどのおたく>と書かれていた。彼は割りと熱心に漫画を描いていたが、それはあくまで趣味であり、プロは意識していたがそれは技術面だけの事で、ただ"もっと上手くなってプロ顔負けになりたい"と趣味として思っていた。また将来の夢というくらいだから上記の5つは1つも実現できていなかったという事だ。そして憧れていたらしい。
 「ねえ、広也君って下着の収集癖あったっけ?」
 「そうそう、絵を描く時に現物があると便利だし、模様とかの参考にもなる・・・って、無いよ!」
 「そう・・・残念ね」
 「ええっ!?」
 「着の身着のままで来たから、下着の替えが無くて」
 「そう・・・どうしよう・・・」
 「外から持ってくるしか」
 「なら買いに行く?」
 広也はこの頃は時間があれば寝ていたので、ジャージのままベッドに入り、メガネを取り横になって話した。
 「いつ?」
 極度の近視で陽花の表情はほとんど分からない。絵の具をぼかしたキャンバスの様に、陽花の紫がかった髪やつるつるの肌の色などがそれぞれ色の塊となって知覚されるだけだ。
 「今週の土曜日休みだから、午前中ならいいけど」
 「ならそうするわ」
 そして週末。吹き付ける風は冷たい。街中のデパートの下着コーナーに、下棒の様に細いジーパンにフリース姿の、髪の毛の長いメガネの青年と、帽子にサングラス、マスクに体の線の見えない厚手の上着を着込んだ同じくらいの背の人間がいた。
 (恥ずかしいから早く選んでよ、陽花さん)
 デパートの下着コーナーはフェミニンな色彩に溢れていて、目が痛いほどだった。
 (・・・ええ)
 陽花はその格好からか人目を気にしながら、遠慮がちに下着コーナーを見て回る。
 (陽花さん、僕ちょっとトイレに行って来る)
 (ちょ、ちょっと・・・)
 陽花はマスクを動かして困った様子で呼び止めようとしたが、それよりも早く広也は案内表示に従って歩いていってしまった。
 (・・・・・・)
 色とりどりのブラジャーが積まれたコーナーに、その妖艶ですらある顔も体つきも隠した、一見変質者のような服装の陽花が残された。
 「なーに、アレ」
 「やーねー」
 付近にいた買い物客から口々に浴びせられる疑念の眼差しと嘲笑。陽花は肢体を強張らせて、俯き小さく震えているしかなかった。

 買い物を終えた2人は、寒空の下街頭に立ち一休みしていた。
 「う・・・ううっ・・・」
 マスク越しに伝わる声はくぐもっていたが、それは陽花の涙まで流した嗚咽だった。
 「大丈夫?・・・」
 広也にはただ心配そうに見守っているだけしか出来なかった。小雪のぱらぱらとちらつく穏やかな休日のまどろみの事だった。

新世紀。新たな世界史の幕開け。二人の同居する中学生、広也と陽花はそれほど変わる事もなく、一歩一歩同じ毎日を歩んでいた。
 「広也君・・・今日は・・・試験?」
 寝ぼけ眼の陽花はベッドの上に内股座りで、布団にくるまって声も震わせながら、寒そうに出かける準備をする広也に言う。部屋に暖房は無かった。
 「うん。あんま勉強してないんだよな。まあいつもの事だけど」
 広也はジーパンにトレーナーという私服にフリースを羽織り、カバンの中身を確認した。
 「じゃ、頑張って行って来るわ」
 その年は大雪が続き、広也の塾の試験があるその休日の朝もひざまで積もる雪が降っていた。仮に自動車で送ってもらうにしても危険だし、自転車など使い物にならなかったので家を早くに出て歩いていくしかなかった。
 「風邪・・・引かないようにね」
 部屋でもせいぜいフリースを着て足にひざかけを置くだけでずっと机に向かっているし、寒くならないのかと陽花は不思議に思った。しかし広也は寒がるどころか、外では休み時間も放課後もずっと雪合戦をやっていたのであった。ある日なんか学校の玄関で下校する人達を待ち伏せていて、多い時で5対1くらいで雪球の投げ合いをしていた。それは広也の行いを考えれば別に不思議な事ではなく、小学生の時からそんな感じであった。低学年くらいの時はあまりにお腹がすいていた為か、登校中に雪を食っていた。広也の住んでいた地区は山や森に囲まれたきれいな環境だったのでそういった事も出来たのかもしれない。

 「ただいまー。ちょっと雪焼けしたかも」
 雪が降った後の冬の日差しは強く、窓際は暑さを感じるくらいだった。
 「外、どうだった?」
 「雪だらけだよ。もう。他の塾の人達と塾の駐車場で雪合戦やってたし。コンビニの駐車場でも雪合戦やってる。コンビニには入らないけど」
 「コンビニなんてもう行ってないわね・・・」
 「僕も僕も。前は立ち読みしてた事もあるけど、もう半年近く行ってない。レイアウト変わったって聞いたけど何か恥ずかしくて入れなくてそれっきりだ。毎日帰り道に外から様子を見るだけ。買い食いに憧れてる・・・」
 「不摂生はだめだよ。ただでさえ部活終わって運動しなくなってるんだし・・・」
 「だよね。運動してた時と食べる量変わってないから。気をつけないと」
 (陽花さんの前でだらしなくするわけにもいかないし・・・)
 広也は生まれてこの方好き勝手に飲食した事は無かったが、それはこれからも続きそうだった。部活をやめてから51kgから54kgほどに太ってはいた。健康手帳を見る限りではそれは標準体重という事になっていたが、それでも広也は腹筋は割れてないし、少々肥満気味に見えた。
 「ただでさえ僕は金魚みたく食べ物があれば食べ続けるし」
 広也は親から一方的に間食などを規制されていたので、自分で節制する力がまるで無かった。それらは食べ物だけではなく、娯楽全般に当てはまるのだが。勉強ですら、親の為にやっている、それ以外の理由が広也には思いつき様も無かった。
 「睡眠は人間の3大欲求の一つなんだっけ?僕はそう思わないけど・・・」
 そう言って広也はベッドに横になった。
 「僕がまさに言葉通りベッドに体を投げ出したのは、中1の2学期の試験後だけだったな・・・」
 ストップウォッチ片手に勉強したのもあの時だけだ、と広也は思い出した。

 「広也ー、ちょっと来なさい」
 夜、1階から親の呼ぶ声が聞こえ、広也は怪訝な様子で部屋を後にした。
 「広也君・・・何かしたのかな」
 陽花も何があったのか少し気になる様子だった。なので直下のダイニングに向かって聞き耳を立てててみた。
 (女子高生の・・・変なの見てたんでしょ!・・・勝手に・・・使わないでよ)
 (・・・・・・)
 「あ、怒られてる」
 一方的に驟雨の如く怒鳴り散らす母親と、ただ黙ってそれを聞いているらしい広也。
 (そういうサイトを見ると・・・国際回線に飛ばされて、高い通信料を請求されるんだ・・・ほら書いてあるだろ?・・・セイシェル、うんうん・・・)
 オッサンのくせに機械とかに詳しい父親が事の起こりを説明している。
 (講習すると、見るなって言っても見るんだよ・・・必ず。)
 母親に対する対抗心なのか動機はよく分からないが、広也を擁護しているらしい父親。
 (支払い拒否も出来るけど、今回は勉強として払う事にするから・・・)
 その後下の階は一時静かになって、バタバタと階段を登る音がして部屋のドアが開いた。
 「あっ」
 落ち込んだ様子で口をつぐんだ広也が急いで財布からお札を抜く。
 「どうなったの?広也君・・・」
 笑顔でそう聞いてみるも、広也はドアを閉め走り去ってしまう。
 「もう、無視しなくてもいいじゃない」
 部屋にはしゃべり声も聞こえてこなくなり、陽花は成り行きが気になりながら、広也の描いた漫画などを眺めて時間をつぶした。暫くすると吐く息の白い、冷気を身にまとった広也が部屋に戻ってきた。
 「あ、お帰り。・・・どこか行って来たの?」
 「・・・コンビニ。」
 広也は親に半額以上のお金を出してもらい、違法回線の通信料を払ってきたのであった。ちなみに母親は女子高生のアダルトだと勘違いしていたが、実際は触手モノエロアニメを細い回線で何時間か必死に観ようとしていたのが原因だった。
 「久しぶりに・・・行ったんだ。どうだった?」
 「・・・掃除してた」
 そう言うと広也は日記帳を開いて何やら書き綴っていた。ここ最近の広也の行動は陽花にとっても不可解なものになっていた。目を良くするという通販の機械もたまに思い出した様に装着して悦に入っている様に見えたし、ハンディカムを持ち出して延々と無言で自分の姿を映したりと、それが塾に行く前の時間にまであったものだから、知らないフリをしていたものの、内心心配していた。
 「エロ画像ガンガン放出してー・・・と。さあ、疲れたし寝るか。」
 広也は日記帳をたたんで立ち上がった。
 「広也君」
 その呼びかけに広也は立ち止まり、顔を向けた。
 「・・・・・・」
 陽花は何も言わず、ただ微笑みを向けた。ただそれだけだった。

 「帰りが遅いな、広也君・・・」
 その日は広也の私立高校入試のA日程だった。広也は滑り止め高校の受験に行ったのだが、帰宅が遅く部屋に居る陽花も心配していた。
 「次の私立入試が近いのに・・・しかも難関校。過去問もここに用意してあって、まだ手を付けてないみたいだし・・・自分で過去問やった事無いって言ったら笑われたって言ってたじゃない。ちょっと見たけどこの数学の試験なんて解けるのかしら?・・・」
 私立高校は公立の様に試験の出題内容が一律ではないので、非常に難問揃いだった。その為、特に広也が数日後に受験する高校は通常彼らの住む地方では公立校の滑り止めとして位置づけられている私立校としては最も難易度が高く、その為数学の試験は10点取れれば及第だと指導されていた。
 「広也君はもともと共学の中堅上位高を目指してて学校訪問も毎年行ってたみたいだし、あまり私立にはこだわっていないのかもね・・・」

 一方、私立A日程の受験会場にいた広也は・・・
 「すいません」
 広也は受験校に隣接する系列の私大の広い講堂で、何百人という男女の受験生の中、試験問題に向かっていたが。
 「はい」
 広也は講堂で手伝いとして来ていたであろうスーツ姿の学生風の若い男に声をかけた。
 「解答用紙のページが抜けているのですが」
 「そうですか、今持ってきます」
 親切そうなその男性はすぐに問題用紙をもう一部持ってきてくれたのだった。広也は安心してまた解答を始めた。
 (あ、やべ)
 少したって気付いたのだが、ページが抜けていると思っていたのは彼の焦りからくる勘違いで、本当はそのページもあった。
 (悪い事したかな)
 広也は問題を解くのと、さっきの人の視線に気を配るのと二重のプレッシャーを感じたのだった。

 試験が終わった後。広也は同級生2人とそれぞれ親の迎えを待ちながら、駅の近くのデパートの書店にいた。
 (・・・・・・)
 書店の漫画コーナーの所の柱には顔の高さに鏡が付いていて、それをちらちらと見た広也はすごく落ち込んだ。
 (恥ずかしいな・・・)
 しばらく同級生達と3人で歩いていたのだが、他の2人は予定通りに迎えの車で仲良く帰っていってしまった。母親の車を待つ広也は一人とり残された。
 (まだ時間があるな・・・確かこの付近に大きな本屋があったような・・・探してみるか)
 そして広也はデパートを出て、行き先も不明確なまま歩き出した。まだ本命の受験を控える身であって本屋に行こうと考えた事、そして本屋の存在も場所も定かではなかった事から、それは傍から見れば広也が何を思ったのか彷徨い歩いているようにしか見えなかった。
 (随分歩いたな・・・)
 広也は地下鉄の路線に沿って、広い車道をずっと真っ直ぐ歩いていく。外は暗かった。
 (あれ、ここだったかな)
 広也は自分の記憶を頼りに交差点の角にあった店の階段を登り、ドアを開けたが。
 「いらっしゃいませー」
 広也はサーフショップの様な狭い店内に入っていた。奥から制服を着た一人の小さな中学生に対する珍奇とも疑念の意ともとれる声色の挨拶が聞こえる。
 (違った・・・)
 広也はそそくさと店内を後にした。本屋は見つからず、途方に暮れた気持ちで来た道を引き返す。歩が橋の上にさしかかる。暗闇の中に自動車のヘッドライトや街灯の灯りだけが浮かび上がる。
 「広也!!」
 不意に車道から自分を呼ぶ声がして、振り返る。
 「何やってんの!!」
 それは広也を迎えに来た母親だった。そして時間を過ぎて駅の間を彷徨っていた広也を探していたのだった。
 「・・・」
 「早く車に乗ってよ!」
 広也は帰り道で夜道を運転するのは危険だとかいろいろ怒られながら、何とか家路についたのだった。

 「あ、遅かったね広也君。」
 広也が自室のドアを開け、くつろいでいた陽花が迎える。
 「あー疲れた。」
 「どうだった、試験の感触は。」
 「落ちたらヤバイよ(笑)」
 広也の学力ならまず落ちる事は無かったが、答案ミスなど万が一の場合もあり、もし落ちると滑り止めが無くなるので発表があるまで不安ではあった。
 「ゆっくり休んでね。」
 陽花はにこやかにベッドに潜る広也を見つめていた。

 「それじゃ、行くか」
 「気を楽にね。」
 すぐに次の私立受験の日。広也は寝ぼけ眼の陽花に見送られ部屋を出て、朝早く街中にある受験会場の校舎に向かった。市街へとつながる車両専用道路の淡い黄のライトが規則的に続くトンネルを抜けると、ビルの並んだ開けた景色が現れる。いくつかの見覚えのある様な大きな看板。広也を乗せた車はより駅前への道を進む。その校舎へは過去に1度だけ、スキー教室の集合場所として行った事があった。
 「河野君、こっちこっち」
 広也が校舎に入ると、玄関付近で担任の先生が不安そうに待っていた。どうやら広也は遅れて到着した様だった。広也は古い校舎の階段を登り、受験する教室に辿り着いた。
 「ふう、間に合った」
 そこは男子校だったので受験生は男子しかいない。さすがに頭の良さそうな人達が揃っていた。塾で最も頭のいい同級生達も皆来ていた。だからちょっとした学校の教室が再現されたのだった。
 「河野ー、この受験票の写真お前か?」
 それは広也がメガネを外して近所の写真屋を兼ねた文房具屋で撮影した写真だった。いつも絡んでくる元気のいい同級生がその時もいろいろとちょっかいを出して来たのだった。広也は恥ずかしさと集中力を保つために出来るだけ静かにしていたのだが、凄いのはその光景に対して誰一人興味すら示さない様子だった事だった。それが広也にとっては救いでもあり、脅威も感じた。
 試験はあっという間に終わった。その中でも広也が自信を感じたのは国語の解答だった。ほとんど完全に書き込めた。その時の試験監督の先生の視線が自分を侮るものだったのか、それとも関心するものがあったのかは分かりかねた。何にせよ合格発表が出れば分かる。

 リリリリリ・・・
 「広也君・・・」
 「うん」
 何日かたった合格発表の日。勉強するのを名目に、母親に発表を見に行くのを任せていた。本来自分で見に行くべきであったのだが、広也はもう外に出る事が苦痛になっていた。
 「はい、河野です・・・、あお母さん?どうだった?」
 『無いよ!』
 (えっ)
 それは不合格、という知らせだった。
 『もう帰るから、ちゃんと勉強してなさいよ』
 そうして電話は切れた。電話の向こうでは母親はそんなに怒った様子は無かった。しかし後日の話ではすぐに父親に電話して愚痴を言ったらしいし、本当に怒るのは通例家に帰ってきた後だった。

 そして夜。
 「全然勉強してないからこんな結果になったんでしょ!」
 一晩中母親の怒りは続いた。何故かその場には父親もいた。怒鳴る主な内容はとにかく広也の勉強不足に対してのものだった。この時広也は自分が過小評価されている事を思ったのだった。確かに慢性的に勉強を先送りにする傾向は当てはまるが、自分の実力についてはまるで信用が無いという事。こういった人間を黙らせるだけでも、成績や学歴は有用なものかもしれないと思ったりした。
 「そうなの・・・でも気を取り直して。次がまだあるんだから」
 部屋に戻り陽花に対して落ち込んだ様子を見せる広也。それは受験に不合格だったショックというよりは、母親に怒鳴られて落胆した為によるものが大きい。
 「どこに行ったって何があったって広也君は広也君だよ?」
 その言葉に広也は僅かに慰められるのであった。

次の日、広也はうなだれながら学校へ行った。休み時間のトイレでの事。
 「昨日の発表で落ちたって言われてさ・・・」
 「河野受かってたよ」
 「え?」
 それは同じ高校を受験していた二枚目な同級生に言われたのだった。
 「ほとんど皆受かってたし、河野の番号も確かにあったよ」
 「本当!?」
 自分でも自分が信用出来ない。でも友達は受かったと言っている。広也は失いつつあった可能性を感じて気分が180°変わり、それから思ったほど倍率は高くなかったようだからそれほど受かるのはおかしい事ではないと急に冷静な気持ちになった。
 そして昼休みごろ。
 「広也ー、職員室に来て」
 担任の先生に呼ばれ職員室に行くと、廊下に母親がいた。手には合格通知を持って。
 「お母さんが受験番号間違ってたみたいで、家に通知が届いて気付いたんだって」
 既に公立受験校を記入した用紙を提出した後だった。その後二者面談があり、公立校を受験するのか、または受験校を変えるかをもう一度考え直す事を決めて本来の志望校を書いた用紙を返却されたのだった。

 その夜。ダイニングに両親揃って公立受験について話し合ったのだった。
 「トップ私立に受かった事で、トップ校に受かる可能性も出てきた。それで受験校を考え直したい」
 受験校を書く用紙には母親が受験番号を間違って不合格と思い込みさんざん広也の事を叱咤した後に自信喪失しながら書いた、本来の志望校の名前があった。
 「受かる自信はあるの?」
 「受かる可能性は低いと思う。トップ校は偏差値も突出しているから。でも落ちたとしても私立校に入れば・・・」
 「父さんは私立校がいい所だと思うけどな。」
 そう切り出す父親。そして話の流れは公立受験校を決めるという流れから、公立校を受験するか否かという方向に変わっていた。
 「そのトップ校よりよっぽどいい学校だと思うよ」
 そうして父親は本当は合格していた私立校を猛烈に勧め出したのであった。
 「偏差値は下だけど、そっちの方がいいの?」
 「ああ」
 両親はどうやら元から広也がその私立校に受かると思っていなかったらしい。不合格だった場合、志望だった公立校の合格すら危ぶまれていた。まさに合否の事実一つで状況も、評価も180°転換した。それまでは何らの尺度も無く広也は無口で自分の事を滅多に話さなかったのでうすうす得体の知れない感じだったのが、自分達の体面にとって現実的な脅威となったのだ。この頃には口ゲンカでは両親妹揃っても広也一人に論破されていた。広也は朝に弱いので、頭の働かない朝食時に3対1で集中攻撃して広也は朝が嫌いになったくらいだ。そういったプレッシャーや個人的な他の悩みから、広也の精神は限界に達していた。そんな状態下での父親の提案は、広也にとっては願ってもないものだった。
 「今入学を決めてもいいんだぞ」
 広也は目の前に置かれたその選択肢に、もうこれ以上受験会場に行くという気力を持てなかった事から、ほとんど揺り動かされつつあった。
 「公立校の受験をやめようと思ってるんだ・・・父親はそれがいいと言っているし、僕ももう疲れた」
 広也は机に向かって俯き、受験校の記入用紙をひらひらと手で揺らしながらそう力なく発した。
 「それはつまり私立入学も金銭面では問題無く、現在の志望校では偏差値は下がり、かといってトップ校に合格する確率は低い・・・だからもう公立は受けない」
 「もしトップ校を受験して落ちても、受けないのと同じではあるけど」
 「だったら受けるべきよ」
 陽花は誰かに言って欲しいと、広也が思っていた言葉を発したのだった。
 「私が応援する。だから最後まで諦めないで勉強しよう」
 「そう・・・だな」
 そうして広也は受験校を訂正し、翌日提出したのだった。

 「行って来るね」
 その日も広也はいつも通りに、暗い空の下を塾に行く為に部屋を出た。しかし陽花は落ち着かない広也の様子に胸騒ぎを感じた。
 「広也君・・・大丈夫かな・・・」
 陽花の予感は的中した。広也は真っ直ぐ塾に向かう事なく、近くの以前エロ漫画を探した公園のベンチに座り、MDウォークマンを聴き始めた。公園はグラウンドも遊具にも雪が降り積もっている。広也はそうして時間をつぶそうと考えた。フリースを着た肩にも吹雪く雪が積もり、広也は夜の公園を動き回って2月の寒さを凌いだ。
 「あれ?」
 少したってポケットに入れていた眼鏡を紛失しているのに気付いた。夜の暗闇。降り積もる雪。そして無に近い視力。公園をしらみつぶしに歩いてみたが、落とした眼鏡は見つからない。
 「・・・くん」
 (寒いな・・・もう諦めて帰ろうか)
 「広也君」
 自分を呼ぶ声に気付き振り向くと、そこに寒そうに縮こまりながらじっとこちらを見据える陽花がいた。
 「やっぱり広也君だ・・・何か不安になったから来てみたの」
 「ああ・・・今眼鏡を探していて・・・」
 「無理しないで。風邪引くから」
 「・・・座ろう?」
 広也と陽花は公園の遊具に向かい合っておぼろな街灯の照らすベンチに座った。
 「広也君は高校に進学して、どうなりたいと思っているの」
 「・・・分からない。高校に行かなくてもいいんじゃないかと思ってる」
 「ひどいわ!」
 広也の言葉を聞いていた陽花はそれを遮る様に叫んだ。
 「私なんて、それも叶わないというのに・・・」
 陽花は声も無く目元を指で拭う。
 「頑張るよ・・・僕、陽花さんの分まで」
 広也はその様子を見て悟った様にそう言った。
 「うん・・・」
 そして二人は静かに雪の降る夜の公園を後にした。眼鏡は広也が帰宅し、塾をサボり寒空の下をうろついていた事を咎められた後、母親が探しに行き拾ってきたのであった。

 そして幾日かたち、公立受験の合格発表を終えて。
 「落ちたよ、陽花さん」
 トップ校には不合格だった。彼より優秀な塾の同級生も、惜しくも合格を逃していたから順当とは言える。塾の先生によれば、高校受験は文系に有利な為、理系科目に強い彼はその為に合格出来なかったが、国語などが得意な広也には十分受かる可能性があるという下馬評だった。
 「そう。でも悔いが残らなくて良かったじゃない。どのみち進む道は変わらないのだし」
 「そうだな。自分の実力が分かった良かった。まだまだ僕はスタートラインに立ったばかりだ」